多様性を認めるためには、排除が必要

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多様な価値観を認めていこう。お互い認めあって、尊重しあって生きていこうじゃないか!ということは素晴らしい。

しかし、一方で多様性を認めろという人は、「多様性を否定する」という多様な意見を認められない。

結局、多様性はある種のルールの中でのみ維持されるとも言える。

「セクシャル・マイノリティを差別するな!」という意見に、私だって概ね賛成だが、一方で差別する人の気持もわかる。今ほど人の交流が少なかった時代においては、おそらく村や家族が子どもを産み育てることは自分たちが生き残る上では非常に重要だったはずだ。農耕社会では子どもも大切な労働力だし、乳児死亡率も高かったろうから、どんどんと子どもを作っていかないことには生活に影響しただろう。そんな生き死にのかかった環境の中では、やはりセクシャル・マイノリティを容認出来るだけの余裕が社会になかったのは容易に想像できる。そうやって作られた価値観は、現代になったからといってすぐ変わるものでもない。

 

今はセクシャル・マイノリティは認められる多様性の中に入ることができていると言える。しかし、いくら多様性を認めようと言っても、「殺人とかしても別にいいじゃん?」といった価値観は、絶対に認められないだろう。

小さい話で言えば社会の「マナー」も難しい。「道にガムを捨てていい」という価値観は、多様性とはならないし、「電車内で電話する」のも、日本社会では認められる多様性とは言えない。

こういった大前提は、その時の環境が作った秩序と言ってもいいし、主義と言ってもいい。集合知で作られた法もそれにあたる。

どちらにしろ、何かの線引き、排除をして初めて多様性は保たれるのだと思う。

 

これは、社会の生産性を考えた時もそうで、「多様な意見を出し合うことが大切」というのは、一見正論に見えるが、何でもありというわけでもない。

例えば、サッカーの戦術は多様であるべきだし、正解はない。守備的な戦術が好きな人もいれば、攻撃的にいきたいという人も居て、どちらも否定されるものではない。チームとしては、多様な意見を出し合い合意できる場所を探し、方針を決めていくことが大切である。

しかし、サッカーの戦術を議論している時に、「いや、やっぱフィールドプレーヤーも手を使ってもいいのではないだろうか」という意見は論外。そんなことを話し始めたら、ただ意味のない意見交換の時間が過ぎ去っていくことになる。

 

結局、何かの前提条件を共有しなくては、多様性に価値はない。何かを切り捨てて、排除して初めて、捨てた先のわずかに許された多様性を守っているに過ぎないのだろう。

 

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