恒例の1年の振り返りエントリーを書く。
昨年末、2018年を「例年以上に引きこもった年だった」と書いたが、2019年はそれ以上に引きこもっていたように思う。いつの間にか34歳になった。歳を取っていくというのは、自分の身の回りだけで生きていく時間が増えていくことなのかもしれない。
2019年最大の出来事は、もちろん次男が産まれたことだ。2017年から子育てという、今までの人生で想像しなかったほど「自分の時間」を奪われる暮らしの変化が訪れてから、ありきたりな言葉だが生き方や考え方がガラリと変わった。そして、2人が産まれると、さらに「自分の時間」のない暮らしになった。生後間もない次男と妻が家にいる。長男は9時に保育園に行き16時に帰ってくる。
主に自宅で仕事をしている私としては、集中して作業できる時間が激減。さらに、夜もどちらかを寝かしつけすると、大抵一緒に朝まで寝てしまう有様だった。そんなこんなで、新しい仕事をするというよりは、これまでのつながりの中で、取材記事を書いたり、本や冊子を作ったりしていた。ありがたいことに、外に出て仕事を広げる活動はせずとも、お声がけいただく範囲でそれなりの仕事量になったと思う。
仕事と子育てと並行して、週末農業グループのまきどき村の活動と2年目の米作りにも取り組んだ。活動場所の新潟市西蒲区福井集落での暮らしも丸2年となり、まきどき村の活動は自分たち家族の生活の延長線上にある感覚になってきた。日常生活を共に過ごす。そんな人たちが増えたのはとてもよかった。また、福井集落に友人夫婦が引っ越してきてくれたのも心強かった。家族や友達は物理的な距離が近いほうが絶対にいい。そして、自分の住む地域に人が集まってきて、一緒に地域のことをなにかできることは、本当にありがたい環境にあると感じている。
さて、田畑の世話をしたり、子どもの相手をしたりと、家にいることの多かった一年だったが、「考える」ことに関してはかなり充実した一年だったように思う。特に、2013年頃から熱心に読んだり、トークイベントを見たりしてきた思想家・哲学者の東浩紀氏の影響を受け続けてきたが、ようやく自分なりのアクションに結び付けられそうな手応えを感じられるようになった。特に2019年は東氏の単行本「ゆるく考える(河出書房新社 )」と「テーマパーク化する地球(ゲンロン叢書)」、雑誌ゲンロン10に掲載された論考「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」といった噛み砕いた言葉で書かれたエッセイを立て続けに読むことができた。また、氏がジャンルを超えて行う数々の対談動画を有料で見まくったことで、哲学の難しい言葉だけではなく、より日常に近い言葉で小難しいことを考えられるようになった。東氏の運営する㈱ゲンロンのコンテンツは知的好奇心を満たしてくれて本当に満足している。新潟でもそのことについて語らえる友達や語らえる場を改めて増やしていきたい。
2019年に読んだ漫画で特に良かったのが、ゲンロンで紹介されていて知った「レッド」(山本直樹)と、「ぼくの村の話」(尾瀬あきら)だ。
2015年から16年にかけて日本や世界各国でデモが盛り上がり、「政治の季節がまたやってきた」という言葉をあちらこちらで目にした。それは1960年代後半から世界的に盛り上がった学生運動の再来を期待してのことだった。しかし、デモは泡のようにあっという間に消え去った。そして権力だけが残った。私はその様子を冷めた目で外から見ていただけだったが、同時に今よりもずっと民衆に力のあった60年代後半でさえ政治を変えられなかったという事が気になるようになった。以来、学生運動などのことについて少しずつ勉強をしていた。特に「武装闘争」に興味があった。革命には、必要なことだと思ったからだ。「レッド」は連合赤軍が浅間山荘事件(1972年)へと突き進んでいく物語であり、「ぼくの村の話」は三里塚闘争(成田空港問題/1966年~)を農民側の視点で描いた物語である。どちらも、学生運動を中心に市民が「政治を、世界を変えよう」と戦った時代の話だ。そして「武装した学生」は世の中を変えられず内部崩壊し、「武装した農民」は、土地を守ることができなかった。連合赤軍事件と三里塚闘争は同じ反体制でありつつも、権力側の理不尽に潰されていった出来事でもあり、反権力側が暴走した出来事でもある。そんな当時に生きた人たちのことを知りたかった。漫画=フィクションは事実だけでなく、そこに生きた人間の感情を知ることができる。取材や実話をベースにしていても、あくまでも「フィクション」であり、偏りはあるし盛り上げるための仕掛けや、描かないこともたくさんあると思う。けれど、人の感情のうねりを想像できるのはフィクションならではだと思う。
そして、この2つの作品は傑作だった。綺麗事だけではない生々しい人間の姿を見ることができてよかった。たった数十年前に、市民が武器を手にとったという事実を忘れてはいけない。
おそらく私は反体制、反権力寄りの傾向があると思う。現政権も行政も嫌だと思うが、といっても左翼には共感しない。民俗学的な話が好きなのでコミュニタリアニズムに近いような気もするが、その思想の欠点もよくわかっており手放しに賛同はできない。結局、現時点で具体的な政治信念のようなものがあるわけではない。ただ、資本主義に振り回される社会のなかで、地に足のついた自分たち生活を取り戻したいと思っている。換金化できない「豊かさ」をどう守り、どう育てるかについて考えている。それは、反体制というよりは、権力や大きなものに巻き込まれず、インディペンデントでありたいというだけなのかもしれない。そして、それは自分の生活の延長線上にしかないのだと思う。
自分の生活にどう人を巻き込んでいくか。それは子育てであり、まきどき村であり、田んぼや畑や山のある地域に住んでいることでもある。仕事ももっとそれに近づけられたらいい。結局は実生活の中で、地味に思想を実現していくだけなので、華やかなことをする訳ではないが、深く考えながら日々を生きていきたいと思う。
例年通り、脈絡のないことをだらだらと書いてしまった。インフルエンザで家族が総倒れした中、毎年の恒例行事を守れたことは良かった。良いお年を。