暮らしに「つくる」を取り入れる。できないことを許す寛容さを大切にしたい

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この週末は随分ゆっくりと過ごした。海に山にお出かけ三昧。仕事を放り出してだったけど、リラックスができた。

日曜日は旧下田村をドライブしていて、スノーピークにも寄った。私はスノーピークの「人生に野遊びを」というキャッチコピーが大好き。好き過ぎて逆に悔しいくらいで、これに匹敵するような自分の言葉を見つけたいと日々考えている。

私が大切にしたいのは「つくる」こと。

今、私は仲間と畑をして料理をしている。本棚を作ったり。書いたり。メディアをやったり。居場所をつくったりしている。仕事では市民が自発的に行う活動のお手伝いをしている。

「つくる」という行為は思ったようにできないことの方が多い。頭ではわかっていても、実際に身体を使ってやってると、その通りには行かない。「わかる」と「できる」のは違うのだ。そして、本当は世の中にはできない事の方が多いはず。思い通りにいかないことを「しかたない」と思える寛容さを大切にしたい。

今の世の中には、「わかるとできる」ものが多すぎる。パソコン、簡単な仕事、勉強なんて典型的だ。「わかるとできる」ものは、反復訓練がそんなにいらいない。

学校のテストとかも「わかっていたらできる」ことで、公式を覚えておけば、だいたいの問題は解くことが「できる」。

一方で、身体をつかうことは、わかってもできない事が多い。スポーツ、工作、絵を描くこと。頭で分かっていても全然できない。

現代社会において、ストレスを感じるものの多くが「わかっているけれどできない」時に感じるもののように思う。人間関係、仕事、人生。どれも「ああしたい」「こうしなければ」とわかっているのになかなかできない。そんな時に辛くなるし、すごく負担を感じる。

養老孟司さんは「ああすれば、こうなる」は危険。と言っている。良い大学に行けば良い会社に入れる。この資格を取れば、この仕事につける。保険に入れば、将来安心。etc。

とにかく、「ああすれば、こうなる」で社会は動いているのだが、養老先生はそれを批判している。私もそうなだぁと思う。「ああすれば、こうなる」は「わかるとできる」と同じだ。

「こうならなかった」とき、「できなかった」ときにすごくストレスを感じる。

自分が惨めに思えるし、死にたいとも思う。

 

けれど、本当は「できないこと」の方が世の中には多いはずだと思う。できないことは悪く無い。できなくて当たり前。

今の生活の中で「できないことの方が多いんだ」ということを、実感できる場が少ないような気がする。自分ができないことを実感する一番の方法は何か自分で「つくる」ことだと思う。

自分ができないことが多いと知ること。それは、自分の人生に対しても少しだけ寛容になれるということ。

自分ができないことが多いと知ること。それは、誰かに対しても少しだけ寛容になれるということ。

うまくいかなくて当たり前。

「つくる」を通じて、そういう寛容さを広げていき、自分が生きやすい環境をつくっていきたいと思う。

農作業

料理

ものづくり

野遊び

居場所づくり

地域づくり

娯楽づくり

執筆

メディア作り

暮らしに「つくる」を取り入れる。を、少しずつ広げていきたい。

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