客観的な私の顔について

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小難しい話をひとつ。「若い女性の間で写真アプリ依存」が話題だそうですね。

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プロが「イマドキの女子」を撮影し、本人に写真を見せたところ…信じられない感想が! | BUZZmag
http://buzzmag.jp/archives/125245
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若い子の写真をプロが撮ったところ、「違う!これは私の顔じゃない!写真撮るの下手ですね」と怒られたんだとか。スマホアプリやらプリクラ等で盛った加工写真の方が自分だと思い込んでいるのだそう。

 

 

「へー!おもしろいなぁ」と思ったのですが、案の定否定的な感想が多いようですね。「けしからん!自分をちゃんと客観視しろ!鏡を見たことがないのか!」みたいなコメントが各所で見られました。

しかし、じっくりと考えてみると、そもそも「私の顔」を人間が認識し始めたのっていつ頃からなんでしょうね?鏡やガラスがあまりなかった時代は、そもそも「自分の顔」をちゃんと見ることなんでなかったでしょう。銅鏡でははっきり見えないだろうし、水鏡だって自分の顔を覚えられるくらいじっくり見たりはできない。偉い人は画家に自分の顔を描かせていただろうけれど、それは当然盛ってもらいますよね。つまり、人間の長い歴史の中では「私の顔」を認識して生活している期間は、近代になってのごく僅かな間だということになります。

では、「私の顔」を認識していない人間はどんな気持ちで生きていたのでしょうか?というか現代も、環境によっては「私の顔」を充分に知らずに生きている人もたくさんいるでしょう。先住民の人とか。他にもたくさんいる気がします。
うちの犬は、鏡に写った自分の顔を見ても、「別の犬がいる!」と勘違いして驚きますが、「ああ私の顔だ」とは思っていない感じです。犬は「私の顔」がなく行きているのでしょうか。
「私の顔」を知らずとも、あまり不自由ないのかもしれません。少なくとも「自分の顔を見て自分で卑屈になる」ということはないでしょう。いや、周りの評価だけが「私の顔」を知る手がかりなので、「本当は美しいのに自分は醜いと思っている」と卑屈になってしまっていたシンデレラのような人もたくさんいたのかもしれません。うーん。なかなか想像できませんねぇ。

とは言え、今のスマホや、証明写真など技術による加工っぷりや、化粧の技術の進化を見ると、この先に本当の「私の顔」を認識しながら生きる人間もほとんどいないかもしれません。そもそも、私たちが見ている鏡に写った「私の顔」でさえ、真実の私の顔であるという確証はないのです。世界には「他人の顔」は確かに存在します。私の眼の前にいる、あなたの顔を私は認識しています。客観的に。しかし、「私の顔」は私の世界には存在しないのかもしれません。

一体、本当の「私の顔」とは何なのでしょう?果たして、「客観的な私の顔」などというものはこの世に存在するのでしょうか?所詮「私の顔」など、自己イメージの産物にすぎないのであれば、自分が一番都合よく解釈するのが幸せなのかもしれません。つまり、アプリ加工の私が私だと思っていることは、問題ないんだよ。きっと。

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