2017/7/2 畑のある暮らし

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

2014年から新潟市西蒲区福井地区の畑に通うようになった。この集落を拠点として畑と朝ごはんの会を開催している「まきどき村」に参加するようになって、もう4年目だ。「もう」と言って良いのか、「まだ」と言ったほうが良いのかわからない。妻とはこの集落の神社と古民家で結婚式を挙げさせてもらったのだから、随分深い付き合いかと思っていたが、4年目だと思うと、まだまだか。いや、中学高校は3年だし、大学も4年となれば母校に愛着も誇りも枠と思えば4年目というのはすっかり馴染みだと言えなくもない。

畑をじっくりとやるというのは、この集落に来るようになってからの経験だ。もともと、母の実家が農家だったから小さな頃から畑で遊んでいた記憶はある。小学校1・2年生のとき(3年はどうだったか…)にも、そば打ちを、畑でそばを育てるところからやるという素敵な総合学習に巡り合ったおかげで、鍬を使ったりすることは大好きだった。そんな経験が、大学進学のときには農学部を選び、社会人になっても農家の取材をしたり、商品開発に関わったりといった仕事を選ぶようになった土台にあるのだと思う。ただ、大学でも社会人になっても、畑に通うというのは、収穫の時とか、田植えのときと言った具合に「スポット」ばかり。どこかの土地に根を下ろしてじっくりと畑をするというのは、この4年が初めての経験である。

暮らしの中に畑が入ってきたことで、心穏やかになった気がする。もともと、農業をしたくて、農家になりたくて、いつか何かできないかともんもんとしていた。それは今も変わらない。ただ、私には「育てた生産物を売る」という商売ができるような気がしなかった。ただ黙々と作物を作り、売る。それもたくさん。そういうことが、自分に向いていると思えなかった。それよりも、畑のある暮らしそのものが素晴らしいと思ったし、みんなやればいいと思った。そこには効率や生産性というものがあまりないことが良かった。

農作物を売るというのは、ある意味農業の「食料生産」機能だけを消費者に届けているとも言えなくもない。ただ、農業の魅力はそれだけではない。畑にいて、土を触って、自然の中でゆっくりするという行為そのものが農業の素晴らしい機能だと思う。けれど、必死に作物を育てて、それを売ることでは、農業の素晴らしさは消費者に届けることはできない。それより、みんなで一緒に畑で過ごしてみること。それが一番農の良さが届く。「まきどき村」はまさにその場だと思った。

4年続けて、同じ畑に通い続けて、そこで流れる時間の中に身をおくことこそが、かけがえのない価値だと思えるようになった。ただ、「収穫をする」「種をまく」といった、食料生産を目的とした行為ではなく、行為そのものがいい。畑のある暮らしは、自分の暮らしそのものを大切にする暮らしだという気がする。別に誰に褒められるわけでも、儲かるわけでもない。手間はかかる。けれども、そこで人とつながり、自然とつながり、その土地を開いてきた先祖や、将来この土地で暮らす人とつながることができる。そうやって自分の存在が大きなが流れの中に包まれているのだという安心感を得られること。それがきっと心を穏やかにしてくれているんだと思う。

みんなも畑やったほうが良いよ。一緒にやろう。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

SNSでもご購読できます。