【考察】世界と比べて日本が寄付やボランティアが少ないワケ

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※※世界寄付指数とやらによると日本は寄付やボランティアをしている度合いがとても低いらしいという、Facebook友達の投稿を受けて、コメントしたものを転載します※※

もともと近代化の前の日本は農村主体の共同体です。
そして自然豊かな土地柄でした。

なので、農村共同体がみんなで頑張ればみんなが食べていくに困らない社会でした。共同体の中でどう助け合っていくか?という視点で「結」のような労働力を提供し合う仕組みをつくり。祭りのようなガス抜き&富の再配分の場をつくり。また、寺や神社をつくる・維持するのに皆がお金を出し合って社会のセーフティーネットをつくり。今で言う、ボランティアも寄付のようなことも、ものすごいしていたのですね。そういうものが日常生活に溶け込んでいたのです。
そういった歴史的な流れがあるので、今も農村を中心に助け合いや、寄付(=神社や寺、祭り)などは生活の中に存在しています。それが「当たり前」だという感覚があるのでわざわざ「ボランティア」や「寄付」とか言わないんだと思います。

「日本は内向き」と言われるでしょうが、共同体の中での相互扶助はかなりしている(いた)と思われます。

一方、ボランティア・寄付などが根付くキリスト教圏というか、ヨーロッパは自然があんまり豊でない土地柄でした。一神教は基本的に自然の恵みが少ない地域で生まれると思うのですが、要は「食料を分け合わなきゃ生きていけない」「分け合っても足りない」という環境がベースです。

日本のように、「皆で協力して農業(漁)をすれば食べきれないくらいの食料が手に入る」環境とは違うのです。「自然の恵み」が各所からもたらされる国は多神教の国になりやすいですね。食をくれる自然のいろんなところに感謝するからです。そのために人々が手を取り合う仕組み(村八分のような懲罰も)が発達したり、自然から獲りすぎないために儀式や神話をつくって自然を保護したりといった文化が生まれました。

でも、貧しい自然環境の国はどこかが食料を再配分しないと多くの人が生きていけません。その機能を教会が果たしていたので、みな「教会=神」のお恵みに感謝して生きていくという宗教文化が成立したと考えられます。その文化の中で、ボランティア・寄付といった弱者救済の精神が育まれていったという歴史があるのではないでしょうか。自然は厳しい。神様が救ってくれる。恵みを分け合う。見ず知らずの人も守る。どこか遠くの誰かを思って、自分は我慢する。といったやつですね。

今の世界の社会システムはキリスト教圏の文化をベースにしてできています。政治も、経済もその他もろもろも。なので、日本的な相互扶助は抜け落ち、日本にそもそもなかった文化である「寄付、ボランティア」といったモノサシで世界各国を比較しています。

歴史的な前提があるからキリスト教圏は寄付やボランティアの「教育」しやすい環境なのだと思います。
でも、日本って「自分たちが頑張れば“自然”が答えてくれる」という前提で生活してきたので、寄付や協力に実益を求めちゃったり、うまくいっていないのは自業自得って思っちゃったりするのかもしれません。

ただ、かつての日本的な助け合い精神(というか仕組み)は、近代化以降の社会システムの変化で機能しない形になってきているので、それは問題ですね。特に大都市では。田舎産まれの僕でも、親世代くらいまでは隣組とかちゃんとやっているけれど、僕世代はほぼノータッチです。
いま改めて地方に憧れる若者が増えているというのは、共同体に加わることにあこがれて、地方ではまだギリギリそういった共同体機能が残っているからなのかもしれません。

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