「身内びいき」が当たり前。見ず知らずの人には優しくできない

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11月29日。久しぶりに大学の同期と遭遇した。

その時は、とんかつ「かつや」で一人でスマホをいじりながらソースカツ丼を食べていた。スマホのPlayブックで、無料の青空文庫から新渡戸稲造の書いた「ソクラテス」をダウンロードし、読みながらカツ丼を半分くらい食べ終わったところだった。

5,6年ぶりだろうか?

彼は5歳になる娘さんを連れていた。11月頭に戸建てに引っ越したという。

結婚して7年目の奥さんは風邪で、今日は娘さんと外食して、スーパー銭湯に行くのだという。

すっかり、大人だなぁと思った。

僕はもう食べ終わりだったけれど、彼と娘さんが食べ終わるまで一緒にいさせてもらった。過去に時間を共有したこと有るというだけで、今は連絡を取っているわけでもなく、Facebookでつながっているのでうっすらとお互いの情報を目にしている程度の関係だ。

それでも、やはり特別な人なんだなと思った。

このかつやに居る、まったくの他人と、過去に一緒に過ごした彼とだと、圧倒的に後者の方が親近感が湧くし、何かしてあげたいとか貢献意欲がわく。

情なのか?

多分、この瞬間にかつやの店舗が爆発したら、他の客に構わず彼親子を僕は心配するし助けに走ると思う。

他の客と同じタンパク質の塊なのだけど、僕は彼親子を助ける。

これは差別なのか?

もちろん「差別だひどい」という人はほとんど居ないだろう。

けれど、差別や、良く言って区別は、こういう感情が始まり何だと思う。だから僕は世界から差別がなくなるとは思えないし、人類が皆兄弟とも思えない。他人は他人で、ひょんなきっかけで大学で同期になった彼は身内なのだ。

 

小学校時代に、なぜか「えこひいきはダメだ!」という意味不明な教育が流行った。子どもたちも誰かが優遇されれば「えこひいきだ!」と大人を非難する。平等に扱え、男女差別をなくせ、差別は駄目だ、いじめをやめろ、えこひいきするな。そんなことが強く叫ばれていた。

 

しかし、かつやの店舗が爆発したら、僕は他の客に構わず彼親子を助ける。

これはえこひいきなのか?

そんなことはなく、人間の本質的で本能的な行動だと思う。

だとしたら、差別も、不平等もなくならない。なくせない。

 

平等を叫ぶ人は、すごく合理的何だと思う。合理的に考えれば平等がいいからだ。

しかし、人間の感情は差別も区別も贔屓もする。

そこを否定した上で成り立つ理想社会は、もはや人間社会ではないような気がする。

僕は最近「身内びいき」をしていこうと思っている。世界平和も全ての人間が幸せになることも難しいとようやく諦めがついたから。

 

 

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