知伝子に殺される遺伝子。社会に殺される個人。

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最近の社会はとても生きにくく息苦しいと感じている人が多いそう。ただ生きるためだけには生きられないような社会。なぜ社会はこうまで人を雁字搦めにするのだろうか。
人間と動物の大きな違いに「言葉」を持っているか否かがある。

年末年始に実家に帰った際、母から愛犬のとんでも話をいろいろと聞いた。変なものを食べて具合が悪くなった、散歩中に事故に合いそうになっただの、変な虫にちょっかいを出して返り討ちにあっただの、そんな話だ。
「バカだからねぇ~」と笑って話す母。しかし、犬は言葉を持たないため、何が危険で何が安全なのかを、全て体験で学習するしかない。その個々の体験を、遺伝子に少しずつ残しながら、本能で危険なものをかぎ分けられるようになる。先祖から遺伝子によって伝えられた情報か、自分の体験でしか物事を判断することができないのだ。
その点、言葉を持つ人間は便利なものである。「これは危ないよ」「こうするといいよ」など、他人からアドバイスをもらうことができる。本能でかぎ分けられないものを、ひとつひとつバカみたいに体験して学習する必要がない。先人の知恵という記憶を、外部から調達することが可能だ。
犬が何代にも渡って、痛い体験を繰り返して遺伝子に刻み込む情報を、人間は「言葉」にすることで一瞬にして他の個体に共有できてしまう。言葉とはとんでもなくすごいツールだと思う。
このような、遺伝子ではなく、共有される知識のことを「知伝子」と呼ぶ。DNAに対してmeme(ミーム)と。
人間がここまで発展してきたのは、このミームによるところが大きい。「これは危険」「こうしたほうがいい」という共通概念は、やがて社会を形成する。個々では弱い多くの人間が、この社会というものに守られて、どこまでも発展してきた。
ミームが作り上げた社会。しかし、この社会が「より良い」と選択したことは、必ずしも「個人にとって良い」とは限らない。集団として生き残る選択が、個人を殺すことがある。「合理性」とは言葉によって作られ、社会によって適用される。
この社会の合理性と個人の都合が、今、ずいぶんと乖離してしまったと感じる。言葉とミームが生み出した社会が、どこまでも大きくなり、今ではまるで一つの生き物のようだ。社会という生き物が生きるうえで、個人を切り捨てることが増えてきたのではないか。ミームを守るために、DNAが殺されている。
SFの世界ではアンドロイドvs人間という物語が扱われることも多い。これはまさにミームvsDNAだ。今の世界ではミームはアンドロイドではなく資本主義システムのようにも感じる。
言葉を操ることができるからこそ発展してきた人間が、言葉が作った社会という生き物と共存が難しくなってきている。それが今なのだろうか。社会を持続させるため、個人を切り捨てることが善とは私には思えない。どこかで、社会と個人の新しい共存関係を再構築する必要があるし、それが見つけ出せると信じている。

ミームで出来上がった巨大人口知能と人間がいつか殺し合いをするようなSF的未来はごめんこうむりたい。


唐澤頼充

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