ある日ふと気がついたことがある。
それは世の中の人工物の大半が「言葉」でできていること。
目の前のパソコンを作るには、作り方という言葉を紐解けばよい。
毎日食べるお米も、稲作の方法から精米の仕方、炊き方まですべてが言葉になっているのだ。
家も、道も、靴も、目の前に広がる街もすべてが言葉によってできている。
そう気づいた瞬間に、私は言葉を、当たり前に使っていた言語を愛おしく思った。
言語は生物のなかでも、人間特有のものと言われている。
人間がここまで繁栄したのは、間違いなく言語を持っていたからだと私は思う。
誰かに何かを伝えるための「言語」。
何かを言葉にした瞬間に、その言葉は集団に共有される。
「りんご うまい」「たね まく そだてる」「いし 獲物にぶつける」
現実の経験を言語化したことで、その経験は集団で共有することができる。
一個体の経験を集団の知識とすることで、人間は種を繁栄させてきた。
そして、さまざまな個体の経験を集めてできる規範が社会を作った。
私たちの生きる社会はすべて言葉でできている。
そう気づいた瞬間に、私は日本語が大好きになった。
私の暮らす国は、日本語で作られたのだ。
日本語が個体同士の意思疎通を図り、日本語が共通概念をつくり、日本語が社会をつくり、日本語で農業を営み、日本語で商売をし、日本語で文化を表現し。。。
この国は日本語でできている。
目の前にパソコンの画面がある。
画面では言語はもちろん、画像や動画、線、枠などが映し出されている。音も鳴る。
コンピューターはすべての情報を「0」と「1」の組み合わせで認識し、処理するという。0と1でできた言語を再現しているのが、このパソコンの画面だ。
今はまだ画面という小さな枠の中だけだが、その中には世界が生まれている。
とうとう言語は世界をつくりだすことができるようになったのだ。
ある日から、私が生きていくうえで、もう言葉の存在、言語の存在から目を背けることができなくなった。
私は言葉の魔力にとりつかれたのだ。