時代が変わっても変わらないものに集中する

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2011.3.11の衝撃は直接被災しなかった新潟でも直感的に世界が変わってしまったことを感じた。
私たちの暮らす複雑化した生活環境や、無意識に頼っていた政府やメディアの信頼が幻想だったということが白日の下に晒された日だったと認識している。

なんとなくこのまま続いていくと思っていた日常が突然にして、暴力的に終わったのが3.11だった。
震災前と震災後では僕の心のあり方は全く変わってしまった。
僕個人としてもきっと震災がなければ今のフリーランスという立場も、ネットでさまざまな発言をすることもなかったのではないか。

僕らは巨大なフィクションの中で生きているのかもしれない

ある日、意図のない暴力によって突然人生が終わってしまうことがある。
ある日、意図のない暴力によって突然これまでの生活が全く営めなくなってしまう可能性がある。
終わりなき日常が存在しないという当たり前のことを思い出させることになったのが3.11というものであった。

緊急時には僕らが行っている社会活動や生産活動というものがまるでおままごとのようであると気づいてしまた。
企業活動も、コンテンツ産業も、世の中にある大半のことが、被災地にとっては一瞬にして無意味になってしまった。
もう目の前の社会が、日常が幻想としてしか見えなくなってしまった。

僕らの生きている社会が、まるで巨大なフィクションのような、そんな気持ちさえも芽生えてしまった。

急激に変化していく社会と迷える私たち

今や社会は急激に変化している。
情報流通量がインターネットの登場により爆発的に増加した。
そのような中、これまで成立した産業がある日突然成立しなくなっているということが起こっている。

例えば本屋や家電はAmazonに取って代わられどんどん潰れている。
雑誌の廃刊も続いている。

ネットサービスもまさに栄枯盛衰。
mixiの凋落は数年前では考えられなかったことだった。

資本主義社会が目に見えて制度疲労を起こしている中で、世の中はどんどんと変化していってしまう。
僕らはフィクションを生きているから、そのフィクションがある日突然終わってしまうことを、僕らは3.11で確実に認識してしまったように感じる。

人と人とのつながりは、いつの時代も変わらない

3.11のような日常が突然破壊されてしまった中でも、唯一変わらなかったと思えるものはネット上で可視化された人と人とのつながり。
その人を「知っている」というネットワークだったように思う。

知り合いが多い人ほど融通が利き、少ない人ほど身動きがとれなくなってしまった。
知り合いが多い人は避難先もあり、支援も受けられたり、心配をされたりもした。
知り合いのすくない人は頼る先が、政府やボランティアなどの支援先だけになってしまった。

資本主義社会は制度疲労が顕著で、ロボットは人の職を奪い続け、世の中は本当に先行き不透明になっている。
けれども、どんなに世の中が変わろうとも変わらないのは「人と人とのつながり」の大切さなんだと思う。

個人個人がどれだけ多くの人とどれだけ親密につながっているか。
何かあった時に「あいつどうしていたかな?」と思ってもらえるか。
それがあるかないかで、生き方の選択肢が大きく変わってくるように思う。

ある日突然仕事がなくなってしまった時も、食うに困ったときも、親密なつながりがたくさんある人ならば「じゃあ君、僕の仕事手伝ってよ」と言ってもらえるかもしれない。

ネットで人間関係が可視化されたり、維持されやすくなり、コミュニケーションコストが下がった今だからこそ、つながりのネットワークを独自で構築する努力を続けることが大切だと思う。

今、自分のしていることが人とのつながりを広めることにつながるのか?
今、自分のしていることが人との関係性を深めることにつながるのか?
そういうことを考えながら生きていきたいと思った。

ライター 唐澤 頼充

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