大津のいじめ問題が連日報道されています。
学校側の対応に問題があったとバッシングですが、報道を見ていて改めて学校という空間の特殊性や閉鎖性が浮き彫りになっているように感じました。
とある先生が、「学校の判断基準は生徒にとって一番よいことは?」であると話していたのを聞いたことがあります。
そのような判断のなかで大津いじめ問題も起こったのでしょうか?
まあ、その変はもっと一般社会のルールと尺度でやってくださいとしか言えないのでなんとも・・・
ただ、今回自殺してしまった生徒に逃げ道はなかったのか?という点では解決策が考えられるのではないかと思います。
学校という閉鎖コミュニティ
学校社会というものがあるように、学校というのは独自のルールの中で運営されています。
同世代だけがコミュニティを形成しており、多様な価値観をもった人たちが同一コミュニティ内で過ごさなければなりません。
特定のコミュニティ内では当然ヒエラルキーが生まれます。
そして、様々な価値観をもった人が存在する以上、コミュニティの方向性を決めるための作用として共通の敵=いじめ問題が発生しやすくなります。
いじめが多いのは部活などある程度価値観が共通しているコミュニティよりも、クラスなど多様な価値観の人間が集まっているコミュニティに発生しやすいと思います。
多様な価値観の人が同一コミュニティに押し込められ時間も場所も共有すれば、そういった問題が発生するのは必然です。
クラスも、部活も、授業もある種与えられて、外部からの干渉が少ない、学校という閉じられたコミュニティではいじめ問題が起こるのは避けられません。
誰がいじめ問題に対する逃げ道を作るのか?
とは言え、社会性を学ぶ場でもある学校ではそう言った関係性の発生というのはある種仕方がないことだと思います。
もちろん今回のような生死に関わるような問題は未然に防ぐ必要がありますが、いじめ発生の根絶というのは無理というのが私の意見です。
それよりは、いじめが発生した際にどんな逃げ道を用意できるのかが課題です。
さて、ここでその逃げ道を誰が用意すべきなのか?という点が問題です。
そもそも教育というのは家庭が行うのが当たり前でした。
義務教育が導入された時代には、「家庭から教育の権利を奪うのか!?」と世界的に大きな問題になったそうです。
給食制度が導入された際も、「子供に食べさせるものを学校が決めるのか!?」とドイツなどでは批判が起こったそうです。
しかし、今の日本では教育もしつけも、食育もなんでも学校に外注しているような状況です。
私たちは、さらにいじめ問題の解決までも学校に「外注」してしまうのでしょうか?
ただし、学校は先程から述べているとおり閉鎖的なコミュニティです。
そのコミュニティ内でいじめを受けた子供の逃げ道をはたして用意できるのでしょうか?
学校社会の外にコミュニティをつくる
学校ではいじめや不登校などがあった場合に別室登校をさせるなどの道を用意しています。
しかし、それは学校という同一コミュニティ内での下層というイメージが強くあまり有効な対策とは思えません。
では転校?それも同じスタイルのコミュニティへの単純な移行になるため、あまり意味はないのではないでしょうか?
かと言ってそれ以外の道というのは私たちはあまり思いつかないのではないでしょうか?
なんと子供が所属することができるコミュニティの狭いことか・・・と思ってしまいます。
私は小学校の頃、クラブチームでサッカーをしており、そこには様々な学校から集まった同級生がサッカーというキーワードを元に集まっていました。
学校コミュニティ以外の別コミュニティにも所属していたことになるのですが、精神的に結構助かっていました。
学校コミュニティでうまくいかなくても、別のコミュニティではアイデンティティを保つことができるといった感じです。
私は子供のころから複数のコミュニティに所属することが、もし特定のコミュニティ内でいじめが発生しても自分の身を守るのに有効に機能するのではないかと思います。
そして、それは学校社会の外に作る必要があると考えます。
スポーツ系のコミュニティは、どちらかというと学校社会でもアクティブな層が参加しますが、それ以外のコミュニティをいかに増やしていけるかが課題になると思います。
さらに言うとそのコミュニティは多世代で形成されているのが良いんじゃないかなと思います。
今の子供たちの多くは、同世代のみの学校コミュニティと、家庭というミニマムコミュニティにしか所属していない人が多いと思います。
しかも学校外コミュニティも同世代向けのものが大半です。
それで果たして社会での生き方を学べるのでしょうか?
学校社会はもちろん、子どもが社会性を学ぶため複数のコミュニティに所属することが当然の社会になることが重要ではないかと考えます。
学校コミュニティには馴染めないけれど、多世代のいる読書コミュニティでは楽しくやっていける、などと言った効果が見込めます。
誰が子供が所属するコミュニティを選ぶのか
とは言え子供たちが自分でコミュニティを見つけてきたり選ぶのは難しいはずです。
子供が所属するコミュニティを探すのが、親の仕事になるような気がします。
今の世の中は、
特定の環境にいかに子供や自分を合わせていけるのか?
または、特定のコミュニティをいかいに自分に都合のいいように変えていくのか?
ばかりを考えているような気がします。
それよりは自分が自分らしくいられるようなコミュニティを探す、または新たに作り出すことに時間を割いたほうが効率が良いはずです。
学校にいじめをやめるように伝えるよりも、学校とは別に子供が自分らしくいられる新たなコミュニティを探してあげるのです。
本当にいじめが辛ければ学校に通わせるのを止め、他の子供が生きやすいコミュニティで人生勉強をさせたらいいのだと思います。
今の子供は本当に逃げ道がありません。
それは特定のレイヤーのみしか認めない社会の構造があると思います。
結局子供が逃げたくても、私たちは同一のレイヤーに逃すことしか出来ていないように思いいます。
子供が本当に生きやすい、育ちやすいレイヤーは単一ではないはずです。
まずは我々大人が多層なレイヤーを認め、そこに居場所を作ってあげることが必要なのです。
パーソナル・パブリックの時代
一連の報道を見ていて、学校や教育委員会への批判的な意見は多く見られます。
一方で我々個人が何が出来るか、こうしていこうという意見はあまり見られません。
学校というある程度大多数が所属するレイヤーの中で動かなければならない組織の仕組みを変えることは容易ではありません。
であれば、フットワークの軽い我々個人が何かを始めるしかないのです。
個人が公共活動をすることをパーソナル・パブリックと呼んでみました。
これだけ価値観が多様化している中では、単一のサービスだけでは対応など出来るはずがありません。
であれば我々個人が独自に社会の役に立つ仕組みを始めればいいのです。
子供の健やかな成長を学校のみに任せるのではなく、私たち個人が何ができるのかを考えることが必要だと強く感じる事件でした。
ライター 唐澤 頼充