なぜ存在するのか?の根本を考える

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アレルギー的に拒否反応を起こすものが人間には多くある。

最近は、「お金」、「原発」、「軍事力」などについてアレルギー的に拒否する人も多い。

その中で、最近は「個別的自衛権はいいけど、集団的自衛権は嫌だ」という、拒否反応をする人が多い気がする。

そもそも「なぜ集団的自衛権が国連憲章で認められているのか?」をちょっと考えてみた。

仮に世界で、個別的自衛権だけ認められ集団的自衛権が認められない場合、どこの国も独力で自国を守らねばならないことになる。

それは軍事力が弱い国が、大国に対して団結して立ち向かうことができなくなることを意味する。

仮に大国が侵略戦争を始めても国際社会が対抗する手段がなくなるということだ。

集団的自衛権を認めなければ、弱者が身を守る手段が認められないことになってしまう。

どこかで強大な独裁国家が出現した時に、周辺の弱小国が侵略される姿を指をくわえて見守るだけで良いのか?という指摘が当然入る。

自国の防衛だけで考えると集団的自衛権に拒否反応を示してしまうのかもしれないが、国際社会において連帯して抑止力になる必要が、もちろん日本にもあることは誰も拒否できないだろう。

 

さらに、「個別的自衛権だけで自国を守る」には強大な軍事力が必要とも言い換えることができる。

日本が自国の防衛のため、個別的自衛権だけで対応するというのは、軍事力を拡張し続け、「絶対に負けない力」を保持しなければならない。

それにはもちろん金もかかるし、嫌悪感もある。だから、一国ではなく集団的自衛権で連帯して抑止力を維持していこうぜ、という方針は当然のようにも感じる。

私が、というか世界で集団的自衛権が認められている理由はその辺りではないだろうか。

 

今、日本が安全保障の問題を考えなくてはいけなくなった状況の裏には、ひとつに、今まで「絶対に負けない力」を持って自国だけでなく他国の防衛も含めてい対応していたアメリカが、とうとう息切れをしてしまい、日本へ集団的自衛権の行使を認めてくれてと迫ってきたという現実もあるだろう。

 

少し、話題が逸れたが、既に存在しているもので「なんか嫌だ」ど生理的嫌悪感を感じるものはたくさんある。「お金」や「原発」、「軍事力」、「都会」などなど…… けれども、それぞれに存在せざるを得ない経緯と、理由と、合理性がある。ただ反対するのではなく「なぜ存在するのか?」の根本を考え、そこにある存在の理由を覆すようなシステムを構築しなくては、存在を覆すことは絶対にできないと思う。

 

 

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