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宮崎駿監督の引退と、「風立ちぬ」と、矛盾を生きる

新作が出ると毎度のこととも言えそうであるが、映画「風立ちぬ」を最後に宮崎駿監督が引退宣言を行った。

ネットではまたか・・・という声も多いようではあるが、「風立ちぬ」を見たあとでは、なんとなく納得してしまうほど、この作品は宮崎駿監督の生き方の「矛盾」を再現していたように思う。

堀越二郎と宮崎監督:

風立ちぬは、零戦の設計者・堀越二郎が、少年から青年にかけて「美しい飛行機づくり」に邁進した姿を描いたアニメである。

主人公の二郎はストーリーの中で「美しい飛行機を作りたい」という夢を純粋なまでに追求していく。
その一途さは、時折観覧者をおいていくほど徹底している。

絶対的な正義感・美意識の徹底、一心不乱さ、そんなものを持ち合わせる共感を得難い主人公。
その姿は「美しいアニメーションを作りたい」と願う宮崎駿監督自身に重ねざるを得ない。

どこまでも身勝手な二郎と宮崎監督:

そんな夢を追う二郎は、一見美しく見えるがどこまでも身勝手である。

作中、結核に犯された女性「菜穂子」と出会い、恋に落ちる。
結核といえば、1940年代の日本においては死因の第1位である。
特効薬のなかった時代、菜穂子の生存率は限りなく低かった。

そんな菜穂子と恋に落ち結婚までした二郎は、最後まで仕事優先の人であった。

告白を終えた後、軽井沢の診療所にいる菜穂子に二郎が見舞いに来る描写はない。
たまに送る手紙の内容は仕事のことばかり。
病気を押して、突然山を下り二郎の元へ向かった菜穂子であったが、二郎は仕事ばかり。
交わす会話は「いってらっしゃい」と「おかえり」だけ。

そして、菜穂子は二郎の元を去り、軽井沢の診療所に戻り、ひとり亡くなってしまう。

これらの描写は作中では美談のように語られるが、菜穂子の気持ちを考えれば、二郎はどこまでも身勝手な男である。

夢に生きた男と犠牲になった家族。
仕事を投げ打って、もしくは減らして本当に好きな菜穂子と大切に過ごすという選択肢は、二郎には全くなかったようである。

ちなみに、宮崎駿監督も似たようなものであったようだ。
岡田斗司夫氏が語った息子宮崎五郎監督についての話の中で、
「五郎氏は、母から頼むからアニメをやらないで欲しい。父(駿氏)のように鬼になってはいけない!と言われていた」そうだ。

二郎は最後に死んだ菜穂子に「あなたは生きて」と許される。
宮崎監督もアニメに捧げた人生を許して欲しかったのではないかと想像できてしまうのだ。

“ピラミッド”のある世界、“原発”のある世界:

作中、次郎が夢の中で邂逅するイタリアの飛行機設計者のカプローニ氏。
カプローニ氏の
「君はピラミッドのある世界とない世界、どちらが好きかね?」
というセリフはこの映画の象徴的なセリフとして受け止められている。

ピラミッドのある世界=飛行機のある世界だ。
「空を飛びたいという人類の夢は呪われた夢でもある。飛行機は殺戮と破壊の道具になる宿命を背負っている。」
とカプローニは続ける。

また、二郎の友人本庄は、作中で貧しい兄弟に菓子をあげようとした次郎を批判する。
「偽善だ。その子がお前に礼でも言うと思ったか?腹を減らしている子供なんかいくらでもいる。俺たちがやっている飛行機の開発に消える金で、日本中の子供たちに天丼とシベリアを毎日食わせて、まだお釣りが来るんだ。」

美しさや夢を追い求めることは多くの犠牲や負の部分を生み出すことになる。
二郎が夢を追いかけることは、本当に大きな犠牲を払うのである。

風立ちぬ最後のシーン。
カプローニと語らう二郎は「国を滅ぼしてしまった」とつぶやく。

二郎の目指した「ピラミッドのある世界=飛行機のある世界」は極端なことを言うと現在の
「原発のある世界」
とも置き換えられる。

原子力発電には夢や美しさ、人類の希望が間違いなくあったのだ。

“反戦”と“反原発”:

風立ちぬの二郎は“反戦”の人であった。
カプローニとの会話の中でも、迷いを口にすることもあった。

そして、ご存知のとおり宮崎駿監督は“反原発”の人である。
「スタジオジブリは原発抜きの電気で映画を作りたい」
と表現したデモは記憶にある人も多いのではないだろうか。

しかし、アニメーションというのは明らかに豊富な電力の恩恵を受けた製品である。
「美しいアニメーションを作りたい」という宮崎駿監督の夢は、原発の電力の恩恵を受けてこそ実現可能な夢だったのだ。

二郎は戦争を嫌いながらも、戦争の道具となる飛行機を作った。
宮崎監督は原発を嫌いながらも、原発の恩恵の極みとも言えるアニメーションを作った。

二人の美意識の追求は、二人の想いに反して望まないものを推進したことにもつながったのだ。

矛盾の中で生きる:

風立ちぬという作品を通じて、矛盾した個人の美意識に基づく行動と、一個人にはどうしようもない社会の流れと、その中で「自分のため」に生き続ける二郎と宮崎駿を見た。

二郎が直面する矛盾は、宮崎監督が感じ続ける矛盾であったのではなかろうか。

人は矛盾の中で生きているのだ。

その生き様に「風立ちぬ」が心を揺さぶられる作品であったことは間違いない。

風立ちぬのラストシーンで、矛盾の中に生きた二郎は許しをもらう。

菜穂子からの「あなたは、生きて。」

カプローニからの「君は生きねばならん。」

そして、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの言葉、「風立ちぬ、いざ生きめやも。」

作品のテーマである
「生きねば。」

誰もが心の中で葛藤を抱えて生きている。
矛盾の中で生きている。

しかし、それでも生きなければならない。生きていいのである。

そんな宮崎監督の渾身のメッセージを感じた作品が風立ちぬであった。

私は「ああ、伝えたいことを表現しきったのかな。そして自分自身を許すことができたのかな。」と感じ、なんとなく今回の引退が本当に最後なのかなと納得した。

宮崎駿監督、素晴らしい作品を今までありがとうございます。
そしてお疲れ様でした。

ライター 唐澤頼充

牛に引かれて善光寺

長野市の誇る無宗派の単立寺院「善光寺」。

おすすめは「お戒壇巡り」。
お戒壇巡りは、秘仏の御本尊様の下を巡り、御本尊様の真下に懸かる「極楽のお錠前」に触れる「行」です。

お錠前に触れると、極楽往生のお約束をいただくそうです。

このお戒壇の中は、一寸先も見えない暗闇。
目の前にかざした自分の手さえも見えない暗闇の中、手探りで歩き、お錠前を探すのです。

その暗闇はどこか浮世離れた世界とつながっているのでは?と思うほど。

ぜひお試しあれ。

唐澤頼充

寺泊港まつり海上大花火大会(8/7)

寺泊の海上大花火大会に初参加。

砂浜で観る花火。
人も少なく、1時間前くらいについたが、かなり前の席が取れた。

近くで見る花火は、迫力満点。

大きな花火大会を遠くで見るよりも、小さな花火大会でも近くで見るほうが好きかもしれない。

寺泊花火ではフェニックスも上がる。
おすすめ。

唐澤 頼充

ガタケット129

新潟のオタクたちの祭典。
フランス人を連れて初参戦。
次こそはコスプレイヤーさんに声かけて写真を撮らせてもらうぞ・・・

「畑が大きくなければいけない理由」 おおかみこどもの雨と雪に学ぶ

先日、今更ながら「おおかみこどもの雨と雪」を観ました。
噂通りのいい作品ですね!素直に感動しました。

花が人間出来すぎているとか、解釈の幅が狭いとか、そういう批判はありますが、個人的にはエンターテイメントとしての完成度に高評価です。

さて、その中でも印象に残ったのが、

「畑が大きくなければいけない理由がわかりました」

という花のセリフとそのエピソードでした。

おおかみ男の子供を育てる花は、人目を避け田舎暮らしを始めます。
貯金を切り崩して生活していた花。
食費を賄うため、畑での野菜作りに挑みますが、都会育ちの花はうまく育てることができません。

そんな中、韮崎のおじいちゃんがじゃがいも作りをおしえてくれます。

韮崎のおじいちゃんにじゃがいも作りを教わる花は、「家族が食べる分にはこれで充分です」と畑ひと区画でいいと言います。

しかし、韮崎のおじいちゃんは有無を言わさず畑を広げるよう強制。
花も渋々その指示に従いました。

その後物語は進み、じゃがいもの収穫を終えた花。
大きな畑で作ったため、たくさん採れたじゃがいもを地域の人たちに配り歩きます。

そして、じゃがいものお返しにと、大量の大根やお米をもらう。

花は韮崎のおじいちゃんにお礼とともに
「畑が大きくなければいけない理由がわかりました」
と、伝えるというエピソードです。

畑が大きかったからじゃがいもを地域の人に配ることができ、代わりにたくさんのものをもらえたという教訓になっています。

これを見た私は、「自分が食べていける分だけは稼いでいる」という自分のスタンスを痛く反省したのです。

私だけでなく、最近は「自分たちの分」だけを確保すればOKという風潮があるように思います。

それは、社会が余裕がなくなってきたことの裏返しでもあるのですが・・・。

とは言え「社会を豊かにする」ということができなければ他人を助けることはもちろん、個人の生活を豊かにすることも難しくなってしまうと思います。

社会の豊かさとは曖昧なものではあるのですが、

「ひとりひとりがちょっと余計にがんばる」

という姿勢が大切なんだなと、このエピソードを通じて感じたのでした。

これ以外のもほっこりエピソードや考えさせるシーンが多数の「おおかみこどもの雨と雪」お勧めです。

さらに言えば、今の時代でがんばる=お金を稼ぐということに繋げがちです。
もちろん皆がたくさん稼いで、税金や寄付で所得の再分配をはかっていくというのは資本主義の理想でもあります。

ただし、そのシステムが現在うまく回らなくなっていきていると多くの人が感じているのではないでしょうか。
お金を多く稼いで、それを再分配していく仕組みが社会でうまく回らなくなってきた今、私たちはお金以外の何かを作り出していく必要があるのではないかと思います。

それが何なのかは・・・なかなか見えてきませんねぇ。
みんなが少しずついろいろと試している段階が今なのかもしれません。
社会がどうすれば豊かになっていくか、社会資本がどう蓄積されているか、私もよく考えて探求していきたいと思います。

ライター 唐澤頼充

地獄谷野猿公苑

長野県の地獄谷野猿公苑。
猿の住みかに私たち人間がお邪魔させてもらっているような空間。

リラックスしている猿達と、興奮してカメラを向ける人間たち。

唐澤頼充

子供たちの宝石箱

夏祭りの夜。
屋台の電球と、子供の目がキラキラ。
小さな頃のお祭りの出店は心躍る“宝石箱”だった。

唐澤 頼充

都市コミュニティ(新潟古町のメイドバーの事例)

「田舎に比べ都会は人のつながりがない」と言われる。

都会には人がたくさんいるのにコミュニティがないと感じる人が多く、その不満が田舎暮らしのあこがれの一つになっていると思う。

しかし、高校生までをド田舎で過ごし、大学生から日本海側の県庁所在地の都市(?)で過ごした僕からすると、都市の方が人とつながれる可能性が高いと感じる。

もちろん人とつながれる可能性が高いからこそ、仕事が生まれ、人が集まり、東京一極集中というものが起こっているのだが・・・。
仕事だけでなく、ゆるいつながりのコミュニティが都市にはたくさん隠れている。

ご存知の方も多いかもしれないが、私は漫画・アニメが好きである。
一般人よりは多少詳しい程度で、オタクを名乗るのは心苦しいが、深夜アニメなども愛好している。

そんな僕の周りには、そんなにオタクっぽい友達がいない。
「くそっ新潟はオタクの土地ではなかったのか!?」
「新潟人なら初代ガンダムのTV版くらい全部見ろよ!」
と悪態を付きたくなってしまうほどだ。

そんな僕が癒しの場を見つけた。
それは、新潟市中央区古町通り8番町にある「新潟メイドバー SLIME BE」だ。
http://slimebe.blog54.fc2.com/

バーなので営業時間は基本的に夜20時から。
そのため、メイド喫茶とはちょっと違う。
キャバクラとも違って、メイドさんは飲まないし、席につかない。

狭い店内。
カウンターとボックス席3つくらいの店内に、メイドさんが2~4名。
アニメグッズやポスターが所狭しと並んでいる。

もちろんかわいいメイドさん目当て行くわけだが、この店の楽しさは何よりも「トーク」だ。
メイドさんとの「トーク」だけではない。
バーだからカウンターに同席したお客さんどうしでもしゃべるのだ。

きっかけの言葉はこう。
「今期何見てますか?」
深夜アニメはドラマと同じように3ヶ月を1クールとして、年4回新作アニメが始まるタイミングがある。
とても全てのアニメは追えないくらいたくさんのアニメが毎クール放送されるのだ。

「メイドバーに来る=漫画・アニメ好き」
ということで、いきなりそんな話が始まるのだ。
客同士の会話にメイドさんが乗ってきて、上手に話題を広げてくれる。

ここでは自分の興味のない話題に無理やり愛想笑いをする必要もない。
好きなものをきっかけに話ができる。
スライムビーは漫画・アニメ好きにはなんとも楽しい空気なのだ。

そして、ここで知り合った人同士で、個人的に遊びに行ったり、連絡先を交換したり、まさにコミュニティの生まれる場となっているのだ。

最近3ヶ月くらい行けていないのでそろそろ遊びに行きたい。
ちなみにスライムビーという珍しい名前の意味をメイドさんに聞いたら誰ひとり知らなかった。
メイド長ですら知らなかった。
どうなってんだよ。
そしてもっとちゃんとシフト表を更新しろ!笑

さて、話を人とのつながりに戻そう。
この特定のものが好きな人同士のつながりは、田舎よりも都会の方が起こりやすい。
なぜなら、田舎でメイドバーのような強い嗜好性をもつ産業は成立しないからだ。

趣味嗜好の多様性は沢山の人がいる都市でこそ起こりやす。
漫画・アニメだけではない。
カメラだって、韓国ドラマだって、スポーツだって、クラブミュージックだって人間が多い方が特定の嗜好を好む人たちの数が集まりやすいのだ。

高校までの学生時代を思い出して欲しい。
クラスという何の意図もない集団に投げ込まれ、付き合いで自分の好きでもない話題を話したり、行動を共にした経験はないだろうか?
部活仲間の方がクラスメイトよりも絆を深く感じるのは、趣味嗜好が近い人間同士だからだと思う。

大人になった私たちも、なんの共通点もない人たちとのつながりよりも、趣味嗜好の合う人どうしのつながりの方が居心地がいいはずだ。

血縁や地縁といったコミュニティはどこか息ぐるしい。
一方、居心地のいい空間は、きっと田舎より都市の方がみつかりやすいはずである。

ライター 唐澤頼充