今年もギークハウス新潟のイベント「無限カレー」に遊びに来ました

新潟でもシェアハウスが増えてきて、メディアにも取り上げられるようになってきました。
その中でも情報公開をしている新潟のシェアハウスのはしりであるギークハウス新潟さんが昨年も開催したイベント「無限カレー」を今年のGWにも開催しています。

無限カレーとは

無限カレーとは
渋谷にあるシェアハウス、渋ハウス発の循環型カレーシステムで、
カレーを大量に作る→みんなで食べる→寄付を募る→そこから材料を買う→カレーを作る(繰り返し
みたいなイベント。カレーを作るだけで人が集まってコミュニティができるっていうこのシステムすごいですね。カレーの持つポテンシャルと汎用性もやばい。

ということで、昨年はこの無限カレーで振舞われるカレーを食べに遠くは神戸からも遊びに来た人がいた!という驚きの集客力を持つイベントです。

シェアハウスが人をつなぐ

シェアハウスにはいろいろな人が集まって住んでいます。
何か人を呼ぶようなイベントをすると、住人の友達がまずは来てくれます。
そこで、出会いが生まれます。
友達の友達、友達の友達の友達・・・・とどんどんと知り合いの輪が広がる可能性があります。
しかも、家というあまりかしこまらず、素をさらけ出しやすい空間というのもポイントです。

また、面白いのはシェアハウス同士の連携もあるということです。
シェアハウスに関わっている人が、あのシェアハウスで○○があるらしい。といった具合で情報が拡散していくイメージもあります。

新潟市にあるシェアハウス

僕もシェアハウスに住んでいるのですが、私の知っている限りでは新潟市には下記のシェアハウスが展開されています。

ギークハウス新潟(越後石山駅近く)

ゆるや家(西区寺尾)

シェアハウス小桜(中央区学校町)※女性限定

新潟しぇあはうす万代(中央区万代)

新潟しぇあはうす寺尾(西区寺尾)

新潟しぇあはうす寺尾上(西区寺尾)

あんずハウス(西区寺尾)

何よりも安いし、人と一緒に住めて寂しくないし、知り合いも増えるしと便利なシェアハウス文化はこれからもう少し新潟でも浸透してきそうです。

イベントをチェックしてみよう

シェアハウスはそこに住まないでも、気軽に遊びに行ったり、住人と仲良くなっておくと何かと面白い遊び場になります。
そういったコミュニティを作っていく生き方も大切だと思います。
ギークハウス新潟さんの無限カレーのようにシェアハウスではいろいろなイベントはちょこちょこやっていると思いますので、ぜひ遊びに行ってみてはいかがでしょうか?

ライター 唐澤 頼充

砂丘の道(シーサイドライン)

新潟の海岸沿いを走るシーサイドライン。
新潟市内は砂浜の中を走る道となります。
砂丘の道はどこか非日常、異国の雰囲気を漂わせます。

ガタペンタ

砂丘整備

ようやく晴れの日が増えてきた新潟。
冬の間、暴風で荒れ放題に撒き散らされた海岸の砂を整理する働く機械たち。
人の何倍ものパワーとスタミナを持つ機械。
この機械がなかった時代、人は砂をどけるだけで春を終えていたのかもしれない。

ガタペンタ

春の海とペットボトル

海のある街の生活。
晴れの日には散歩に海を眺めに来る人が。

ようやく顔を見せる太陽の下、春の海はキラキラと眩しく輝きます。

冬の荒れた海岸では誰にも見つけられなかった砂浜に打ち上げられたペットボトルも、
ようやく人目に触れるようになりました。

ガタペンタ

何かを売り続けなければ生きていけない社会は幸せなのか?

最近よく考えることがあります。
「何かを売り続けなければ生きていけない社会だなー」と。

消費社会、資本主義と言われる現在ですが、社会全体が市場原理の中にあります。

今の社会では生きるためにお金が不可欠です。
しかも、そのお金は現在働くことでしか得ることができません。
そして、一般の人に支払われるお金は何かを売ったことで得られるお金なのです。

企業を考えればわかりやすいと思います。
企業は基本的に売上の中から、原価や人件費を含む経費を支払っています。
その残ったお金が企業の利益となります。
当然売上がなければその企業は倒産します。
企業が売上=何かを売っているからこそ、その企業は生き延びることができるのです。

公務員は売上あげてないのでは?と思う方もいらっしゃると思いますが、行政期間は税金で運営しています。
税金は基本的に企業の利益や個人の収入に対して掛かっています。
結局のところ誰かが何かを売って得られた売上の一部で生きているのです。

これは、NPOやNGO、医療福祉系の仕事も一緒です。

そして生活保護や年金暮らしの人たちも同様に企業の利益→税金→給付金という形で、誰かの売上に依存しています。

何かを売り続けることが幸せなのでしょうか?

さて、物が足りない時代や生活が不便だった時代であれば、何か商品やサービスを売ることは、人の生活を豊かにすることに貢献していたと言えそうです。
しかし、これだけ豊かになった社会では逆に詐欺や押し売りといったことも問題になっています。
生活必需品だけを揃えるのにはそんなにお金はかかりません。
それ以外の、一見不要なものを大量に売ることで現在の社会は成り立っています。

極端な話をすれば、もっと多くの人がたくさん商品やサービスを買えば社会は豊かになります。
日本の社会の豊かさは、日本国内の内需の大きさはもちろん、海外へのどんどん商品やサービスを売っているから成り立っています。

しかし、この大量消費社会は環境問題や資源問題が世の中に認知されるようになり、感覚的に頭打ちとなりました。
日本や欧米の一部ではシンプルライフやエコライフ、グリーンライフといった生き方をする人が増えています。
また、日本では質素倹約や勤倹質素が美徳とされる文化もあります。

本当はもっと皆が商品やサービスを売れる社会、もっと皆が大量に消費する社会が、消費社会の中では多くの人が幸せになるはずなのに、私たち一般人がそれを毛嫌いしている面があります。
そして実際にそれとは逆のライフスタイルを嗜好する人たちも増えてきています。

そうなると、はたしてこの「何かを売り続けなければ生きていけない社会」はどんどんと生きにく社会になってきてしまいます。

さらに言うと、現在の社会の中で、その価値がなかなか認められないものがあります。
具体的には、家事や子育て、躾等の家庭内教育、家庭内介護、町内会、地域活動などです。
これらが廃れていった、またうまく回らなくなった大きな理由は、私は市場化をすることができなかったからだと思います。
このような社会的に価値はあっても「市場化できなかった」分野はこの何かを売らなければ生きていけない社会においては、衰退していってしまいます。
これは消費社会においては仕方がないと思います。

今の時代は、極端に言えば既に満ちたりしている人たちにもっともっと何かを売りつけなければ私たちは生きていけないのです。
「○○で社会貢献」というのはぶっちゃけ嘘です。
だって、生活のために必要なものはもう行き渡っていますからね。

NPOやNGOなどで寄付を集めたり助成金を受けたりで社会的な活動をしている人たちも、誰かが無理に売上をあげたお金のおかげで活動できているのです。
彼らの活動そのものは市場社会のなかでは全く価値がないのです。

こういう社会になってしまっている状況は幸せなのかな?と思ってしまうのです。
なんとなく構造的に限界が来ているのかなと。
世界的な閉塞感はこの辺りに原因があるのかなぁと。

個人的な手段としては
・全ての市場化
or
・新しい経済圏の構築
or
・ベーシックインカムの導入
などが考えられるのかなと思っています。その具体的な案はまたのタイミングで。

ライター 唐澤 頼充

鉢の巣。ひと冬を超えて

春の訪れ
青々とした草木が茂り始める中、昨年打ち捨てられた蜂の巣がぽつり。

かつて栄華を極めたであろう女王とその仲間の姿はなく、その住処も徐々に形を崩しつつあります。

ひと冬を超えて、雪の下に残された蜂の巣は、次第に自然の中へと帰っていく。
花開く桜を見上げながら。

ガタペンタ

街中の捨てられた家

人が住む住宅街で、誰も住まなくなり寂れていく家。
持ち主は誰だったのか?
誰も手入れすることなくなった庭の草木ばかりが伸びていく。
いつか誰かが壊し始めるまで。その姿を自然の中に隠す。

新潟ペンタ

トタン板の錆びた家

住宅街に佇む忘れられた家。
錆びたトタン板は、これから瘡蓋が剥がれるようにボロボロと剥げていく。
玄関の南京錠は何を守っているのか。
この家はいつまで此処にいられるのだろうか。
新潟ペンタ