未分類

時代が変わっても変わらないものに集中する

2011.3.11の衝撃は直接被災しなかった新潟でも直感的に世界が変わってしまったことを感じた。
私たちの暮らす複雑化した生活環境や、無意識に頼っていた政府やメディアの信頼が幻想だったということが白日の下に晒された日だったと認識している。

なんとなくこのまま続いていくと思っていた日常が突然にして、暴力的に終わったのが3.11だった。
震災前と震災後では僕の心のあり方は全く変わってしまった。
僕個人としてもきっと震災がなければ今のフリーランスという立場も、ネットでさまざまな発言をすることもなかったのではないか。

僕らは巨大なフィクションの中で生きているのかもしれない

ある日、意図のない暴力によって突然人生が終わってしまうことがある。
ある日、意図のない暴力によって突然これまでの生活が全く営めなくなってしまう可能性がある。
終わりなき日常が存在しないという当たり前のことを思い出させることになったのが3.11というものであった。

緊急時には僕らが行っている社会活動や生産活動というものがまるでおままごとのようであると気づいてしまた。
企業活動も、コンテンツ産業も、世の中にある大半のことが、被災地にとっては一瞬にして無意味になってしまった。
もう目の前の社会が、日常が幻想としてしか見えなくなってしまった。

僕らの生きている社会が、まるで巨大なフィクションのような、そんな気持ちさえも芽生えてしまった。

急激に変化していく社会と迷える私たち

今や社会は急激に変化している。
情報流通量がインターネットの登場により爆発的に増加した。
そのような中、これまで成立した産業がある日突然成立しなくなっているということが起こっている。

例えば本屋や家電はAmazonに取って代わられどんどん潰れている。
雑誌の廃刊も続いている。

ネットサービスもまさに栄枯盛衰。
mixiの凋落は数年前では考えられなかったことだった。

資本主義社会が目に見えて制度疲労を起こしている中で、世の中はどんどんと変化していってしまう。
僕らはフィクションを生きているから、そのフィクションがある日突然終わってしまうことを、僕らは3.11で確実に認識してしまったように感じる。

人と人とのつながりは、いつの時代も変わらない

3.11のような日常が突然破壊されてしまった中でも、唯一変わらなかったと思えるものはネット上で可視化された人と人とのつながり。
その人を「知っている」というネットワークだったように思う。

知り合いが多い人ほど融通が利き、少ない人ほど身動きがとれなくなってしまった。
知り合いが多い人は避難先もあり、支援も受けられたり、心配をされたりもした。
知り合いのすくない人は頼る先が、政府やボランティアなどの支援先だけになってしまった。

資本主義社会は制度疲労が顕著で、ロボットは人の職を奪い続け、世の中は本当に先行き不透明になっている。
けれども、どんなに世の中が変わろうとも変わらないのは「人と人とのつながり」の大切さなんだと思う。

個人個人がどれだけ多くの人とどれだけ親密につながっているか。
何かあった時に「あいつどうしていたかな?」と思ってもらえるか。
それがあるかないかで、生き方の選択肢が大きく変わってくるように思う。

ある日突然仕事がなくなってしまった時も、食うに困ったときも、親密なつながりがたくさんある人ならば「じゃあ君、僕の仕事手伝ってよ」と言ってもらえるかもしれない。

ネットで人間関係が可視化されたり、維持されやすくなり、コミュニケーションコストが下がった今だからこそ、つながりのネットワークを独自で構築する努力を続けることが大切だと思う。

今、自分のしていることが人とのつながりを広めることにつながるのか?
今、自分のしていることが人との関係性を深めることにつながるのか?
そういうことを考えながら生きていきたいと思った。

ライター 唐澤 頼充

夢や目標と言う名の呪い

先日、Facebookでとある学生さんが落ち込んで投稿していた内容が印象的でした。
その内容は、
「やりたいことや夢がよくわからない」
「だけど、将来どうしたいのか?や、今やっていることが将来につながっているのか?と指摘されへこんだ」
というものです。

夢や目標に縛られるのはある種の呪い

やりたいこと、
夢、
意義ある人生、
あるべき姿、
成功、
自分のミッション ・・・etc
そういうものに縛られるのは僕はある種の呪いだと思います。

大事を成す人生がある一方で、多くの人は凡庸な人生を歩みます。
生まれたからには事を成すという考え方も大切ですが、それは何もできなかった時を振り返ると、残念な人生になってしまうかもしれません。

最近は目標を立てろとか、志を持てとか、結果を出せとか、そういう風潮が強すぎるのではないかと感じます。
僕はもっとその場その場の快楽や状況に従って生きることの方が大切だと思います。

志に生きるということはリスキー

ソフトバンクの孫正義さんは高校を中退しアメリカへわたり、
19歳の時に「人生50年計画」というものを立て、今もその目標に向かって突き進んでいます。
これを聞き、多くの人が「志」が大切だと思うわけです。
しかし、僕はこれをとてもリスキーな生き方だと思うのです。
彼は大病を乗り越えたそうですが、何か志を諦めなければならなくなった時に、彼にはどれだけのダメージが残るのでしょうか?

また、少年サンデーで連載している「BE BLUES!~青になれ」というサッカー漫画があります。
これは小学校のころ天才少年と言われた主人公が、日本代表になる目標を立て、その目標を達成するための計画(プラン)をサッカーノートに書いている。しかし、不幸な事故により、大怪我をしてしまい、選手生命の危機にさらされる。2年後にリハビリを乗り越えた主人公が計画(プラン)を達成するために邁進するというストーリーです。
絶望の淵から復活しつつある主人公の姿は、一見美談に見えますが、その事故で彼が本当に選手生命を絶たれていたとしたらその絶望感は計り知れないと思います。

その場、その場で最適化していく生き方

孫正義さんのような人とは別に、何かことすごいことやってると思う人は、別に自分の意思でそうなったわけじゃないことが多いと思います。

興味あることとかに顔突っ込んでいたら、
いまできることに手を出していたら、
周りから頼まれることをしていたら、
やりたくないことを避けようとしていたら、

いつの間にか人から頼まれたり、何かをやらなくてはいけなくなったり、どうやら自分がやる雰囲気かな~というように直感的に感じて自分のやるべきことが決まっていくような印象を受けます。
環境に求められてやらざるを得なくなった、というかまあやるかみたいな感じ。

僕はそれでもいいのではないか、むしろその方が最大多数に当てはまるのではないのかなと思います。
夢とか目標というものは、本質的には独りよがりなものです。
それよりも、「その時、その場でたまたま出会ったことや、求められたことに対応していくうちに、なんとなくこうなってしまった」ということのほうが大切なのではないでしょうか?

アムロ・レイも夢を叶えていない

機動戦士ガンダムに登場するアムロ・レイは、ガンダムに乗りたかったわけでも、軍人になりたかったわけでもありません。
たまたま、ガンダムに乗ることになり、嫌になって降りたり、逃げたりもするけれど、「やっぱ自分がやらなきゃかな。」と思いガンダムに乗り続け軍人として散っていきました。
彼にはたまたま才能があり、たまたまその環境に置かれたから、エースパイロットとなったのです。
でも、同じような環境に置かれた、カイ・シデンやハヤト・コバヤシは最終的にはパイロットを続けませんでした。
それでも、あの環境の影響を受け、自分にできることや求められることをして言った結果、カイはジャーナリスト的な仕事に、ハヤトはカバラの指揮官になりました。
偶然遭遇した環境の中で、できることとできないこと、求められることとできることを考えながら立派に生きていったのです。

多くの人が彼らのような生き方を歩む中で、最近の「夢をかなえるため」といった風潮は、逆に生き方の足かせになってしまうのではないかと思います。

また、そうやって周りの雰囲気的なもので責任をとらなきゃいけないかなーみたいなことで始めることこそが、真に世の中の役立つことをやっているように感じます。

周りの人を楽しませる、助けるを続ける

夢や目標が悪いとは言いません。
それが明確にある人は、夢を追うのが一番幸せなはずです。
それが叶わなかったとしてもチャレンジした自分を評価できるはずです。

だけど、私を含めてある種の使命感に駆られるような、また自分の欲望を明確化できるような夢や目標を持てない人も多くいます。
その人たちが無理に夢や目標を作ってしまうことは逆に不幸にもなりかねません。
わざわざ自分で「あるべき姿」という幻想を作り上げ、自分に呪いをかけて生きることはないのではないでしょうか?

そんな人たちは、高尚な目標等を立てるのではなく、
興味あることに顔をつっこみ、直接人に会い、そこで人と楽しんだり、助けたりを続けていくのが良いのではないでしょうか?
そうすることで、いつの間にか自分がやらなくてはいけないことや、自然と周りから求められることが見えてくるかもしれません。

あまり、窮屈にならず、自然体で過ごしていくことのほうが人間らしい人生ですよ。
ただし、直接人に会うというのはとても大切です。
人間対人間の関係の中で周りを楽しませたり、助けたりを続けてみてはいかがでしょうか?

ライター 唐澤 頼充

教育は暴力であるとの大前提と物語の影響力

今朝玄関の前でタバコを吸っていたら、バキュームカーが家の前を通り過ぎていった。その時ふと昔学校で国語の授業で読んだ物語を思い出した。

その物語の内容は女の子が早起きして、清々しい気持で学校に登校したらバキュームカーが作業していて、せっかく早起きしたのに気分が台無し!と思う。
だけど、女の子は後で、「人目につかないよう早い時間に作業していた」ことに気づき、嫌な気分になったことを反省するという話。

そう言う国語だったか、道徳だったかの教科書の内容をふと思い出した。

もうその物語を読んだのは15年以上前なんだけど、記憶の中に残っているのだな。とちょっと感心したのと同時に、東浩紀さんが言っていた「教育とは否応なく暴力である」という言葉を実感した瞬間でもあった。

教育とは否応なく暴力である

「教育とは否応なく暴力である。」まっさらな子供には大人の言うことはその善悪にかかわらず「正しい」と強要される。僕が昔に読んだ、きっと道徳をといたであろう物語は、その時は何も思わなかったかもしれないけど、10年20年後も僕の中で生き続けているのである。

これは、良い話である一方で、善悪判断能力の備わっていない子供に対して、価値観を一方的に押し付ける暴力でもある。
「親が生きているだけで子供に影響を与え続ける」ように、大人は常に子供に暴力的な影響を与え続けている。
先日ある方に、「子供が万引きをしてしまう」という話を聞いた。
その原因は実は親にあったという話で、親が普段から勤務先から何か商品を持ち帰ってきていたのだという。それを見た子供は、会社(お店)から物を持ってくるのは悪いことではないと判断したとのことだそうだ。

まっさらな子供に書き込むというのはそういうことである。
また、子供が学校で教わることというのは、正しい正しくないを別にして、まっさらな子供に書き込んでいく行為なのだということを忘れてはいけない。

大人は誰も暴力的に子供に価値観を書き込んでいる

もちろんまっさらな子供に価値観を書き込んでいるのは、学校や親だけではない。
人の親でなくとも、子供の目に配流範囲にいる大人の一挙手一投足が、子供たちに暴力的な影響を与え続けているとも言える。
子供だけじゃない。周りの大人にだって影響を与えている。社会や、文化だって、ひとりひとりの一挙手一投足が作るのだと思う。

震災の時、海外からは日本人の規律正しさや自制心が賞賛された。それを生み出したのも日本人ひとりひとりの行動である。
そしてそう言う「日本人らしさ」を作り出しているのはその場にいる私たち個人の一挙手一投足である。
それは、日本人が小さなころから暴力的に刷り込まれてきた善悪の基準や道徳といった価値観によってなされたはずである。

あの震災時の人々の対応も、あれを見た子供たちに暴力的な影響を与えているはずである。
それが未来の社会を作っていくのだと思う。

物語の影響力

さて、話を最初に戻すと僕が昔の道徳か国語の教科書の内容をふと思い出したのは、あれが「物語」だったと言う影響が強いように思う。
人間は基本的には経験則で学ぶことが最も多いと思う。
そして、物語とは誰かの経験の疑似体験だと言える。
そういう意味では、物語の影響力というのは計り知れないと感じずにはいられない。

では、日本人としての価値観を形成する物語は存在するのだろうか?
キリスト圏や、イスラム圏などでは教義が、人の価値観を作る大きな根本になっている。
それは神話という物語の形で共有されている。と思う。

一方、日本では共有する物語が思いつかない。
子供の頃に聞く桃太郎や、浦島太郎などの昔話がこれに当たるのだろうか?

前にある人が「神話の滅びた国は滅びる」みたいなことを言っていたことがある。
日本ではかつて建国の神話があったけれど、僕らの世代は日本の神話というのは知らない人の方が多いと思う。
そういう面では日本人としての価値観を暴力的に構築してく物語というものが日本には不足しているのかもしれない。

日本に共通言語となる物語は存在するのか?

建国神話的な日本人共通の物語が存在しない一方で、日本人は世界的に見ても物語の消費がすさまじく多い民族でもある。
漫画・アニメといったサブカルチャーと言われるものがこれに当てはまるが、歌舞伎や能といった伝統芸術から始まり、小説、ドラマ、映画、演劇、ミュージカルなど、日本人は恐ろしいほど物語を消費している。

僕の世代にとって、共通している物語といえば、「ドラゴンボール」「スラムダンク」などの漫画・アニメ作品がある。
さらに幼少期を思い返せば、「となりのトトロ」「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」なども強い影響力を持っている。
今でいえば「ワンピース」のような国民的物語まで存在する。

僕は物語の評論家ではないのでよくわからないのだが、日本人は、きっとこの多数の物語の中に共通する価値観やメッセージ性を持たせているのではないかと思う。

少年ジャンプのテーマは「友情・努力・勝利」である様に。
水戸黄門の定番性のように。
日本人的物語の中に潜むテーマというものを探ってみると、日本人が大切にすべき価値観というのが浮かび上がってくるのかもしれないと期待する一方で、最近の中身のない物語の流通量が増加していることに懸念を覚えるのである。

物語を作る側も、否応なく暴力を振るっているということを認識しなければいけない。

ライター 唐澤 頼充

教養を高めるSFのすすめ

これまでもずっとSF作品が好きだった私ですが、最近SF小説を読むようになりました。
そもそも社会人になってからは、実用書やセミナーなどビジネスノウハウやスキルの獲得のためのインプットが中心で、「何か物語を楽しむ」ことからは離れていたように思います。
しかし、最近になってSF作品を楽しむのが教養を高めるためには非常に有効なのではないかと考えるようになったのです。

そもそもSFとは?

SFとはサイエンスフィクションの略語です。
未来!ロボット!宇宙!戦争!アンドロイド!などといったイメージの強いのがSFですが、単純にそうというわけではありません。
SFの定義は

「科学的な空想にもとづいたフィクションの総称。アイザック・アシモフの著作によると、単に宇宙船や宇宙人が登場するのがサイエンス・フィクションではなく、価値観の転倒による驚き、すなわちセンス・オブ・ワンダーが必要とした。長山靖生によれば、SFの成立とは「新しくて古い。遡ればどこまでも古く、人類の想像力の始まりの地点」までも遡れるとし、「オデュッセイアや聖書、日本なら古事記や竹取物語をSFとして読む」ことも可能としている。その一方で、このジャンルを厳正に定める者は1920年代(ヒューゴー・ガーンズバックがSF専門誌アメージング・ストーリーズを発行した時期)を成立とするのが常例だと言う」(wikipedia)

などと言われておりますが、個人的には「科学技術がもたらす価値観変化後の世界を描くもの」だと認識しています。

SFが描く未来

SFの物語の中で描かれるのは、科学技術によって変化した価値観、変化した社会、変化した生活です。
コンピューター、宇宙進出、ロボットの登場、知的生命体との遭遇、アンドロイド、サイボーグ化、インターネット、兵器、便利な道具などなど・・・
これらが登場したことで社会がどう変わるのか?生活がどう変わるのか?価値観がどう変わるのか?といった未来の社会の予想が描かれているのがSFです。
そしてSFの物語の中では、変わった世界の設定の中で、日常を暮らす人間の生活がありありと描かれているのです。

さて、私たちの社会も振り返ればさまざまな技術が生活様式を変えてきて来ます。
20年前はほとんど普及していなかったコンピューターは今ではパソコンとして普及しています。携帯電話もそう。スマートフォンもそうです。
50年前の社会から見たら、現代の暮らしはSFそのものと言えるのではないでしょうか?
つまりは、SFにはこれから起こりうる未来への予測が詳細に描かれているのです。

変化の激しい現代に求められること

私たちの暮らす現代は、かつてないほどに変化のスピードが速いといわれています。
特にWEBサービスやIT系の変化はすさまじく、まさに日進月歩、栄枯盛衰を繰り返しています。
その中でビジネスをしていく人達は、未来の社会を予測する力や、サービスを投入したことで人間がどのようの行動するのかを推察する力が求められています。

具体的には
「新しいテクノロジーの中でライフスタイルを提案する力」
「新しいテクノロジーによって変わった(変わる)ライフスタイルのなかで消費される商品・サービスを企画する力」
「既存のビジネスモデルが、新しいテクノロジーによって変わる社会に最適化できるように変えていける力」

もっと抽象的に言うと、
「想像力」と「構想力」と「提案力」とも言えるのではないでしょうか?

で、これらの要素というものはSFの作品の中ですべて描かれているのです。
あるテクノロジーが、こういう変化をもたらし、その中で人はこう暮らしていく・・・ということがひたすら描かれています。
そういう目線でSF作品を楽しむと、ものすごく勉強になります。

SFに描かれるのは「変化」だけではない

さらに言うと、SF作品で重要なのは作中に描かれる「変化」だけではありません。
いくらテクノロジーが進化したところで「変わらない」ものというのも描かれています。
それは、人間の卑しさだったり、尊厳だったり、信仰だったり、感情だったりです。

ロボットSFの巨匠アイザック・アシモフは「ロボットを語ることで、人間のあるべき姿を語る」と言っているそうです。

センス・オブ・ワンダーが起こった社会でも、
人間は、喜び、笑い、嘆き、悲しみ、騙し、助け、哀れみ、愛し、殺し、孤独で小さな存在です。
そんな人間を変わらない部分を描いているからこそ、リアリティを感じさせ受け手側の感情に訴えかけてくれるのだと思います。

未来社会を考察する力と、そこで生きる人の感情を理解するということで、これから重要な力を身に着けるにはSF作品を楽しむことが最も効率が良いと思ったのでした。

長くなりましたが、今回はここまで。
またちょくちょくSFについては記事にしていきたいと思います。

ライター 唐澤 頼充

批判では前に進めないから、新しく作ろう。「スマホが人間をダメにする」という批判に対する批判


先日といってもちょっと前ですが、Facebook上で何人かがこの記事をシェアしていたので、私も思うことを書こうと思いました。

「スマホが人間をダメにする」
http://www.newsweekjapan.jp/column/takiguchi/2013/02/post-628.php

インターネット時代、スマートフォン時代になって、我々はいつの間にか、以前にはなかったような無礼ではしたない振る舞いをするようになった。~~

結論から言いますと個人的にはこの記事は気に入りません。

使い古された批判

技術革新が起こった際にはこういう批判はすべからくされていたと思います。

印刷技術が登場した際は、「人の話を聞かなくなる」「物事を覚えなくなる」馬鹿野郎!と批判されたと聞きます。
電話が登場した時も、直接人に会わないなんてなんという無礼か!と。
テレビが登場した時も、自分から情報を取りにいかず、与えられるものを見ているだけなんてダメだ!!と。

でも今どれも人間の生活を豊かにするツールとなっている気がします。

新しい便利さはほんとうに「人間をダメにする」のか?というのを疑ってみるのもよいのではないでしょうか?

今の価値観が絶対ではない

この記事で私が不満なのが、「今の価値観がすばらしい」という前提です。
この前提の「今」ですら、一昔前から見ればとんでもない非常識だったはずです。

僕はこういう過去を美化し、技術を憎み、便利さを貶め、今の人間をクズ扱いする論調はけっこう嫌いです。
人間なんて昔からいままでずっとくだらないと思うのです。
スマホの登場でダメになる!?もっと前からダメだろ。と。

だから、ダメダメ言っているんじゃなく。
この技術を使ってどういう素晴らしい価値観が作れるか?をもっと論じるべきだと、こういう記事を読むたびに感じてしまいます。

あと、今回の記事にある消費者批判に対しては、別の見方もできます。
ショールーミング?お前の店がただ商品並べているだけで顧客と話もしねーからだろ!!と。
値段しか選ばれる要素がないからだろ。
値段高いのは搾取してるんじゃね―の?とかね 笑
見方を変えればいろいろな受け取り方ができるものです。

新しい価値観や常識を提案しよう

僕は技術が発展しているからこそ、人間関係や魅力が大切な時代になっていると思います。
なんでも透明になってしまう世の中だからこそ、
粗がすぐみえてしまう世の中になったからこそ、
本当の人間関係の大切な人間くさいいい時代になると思います。

生活スタイルを変える技術が世の中に広がった際には、このような「常識がない。」「節度に欠ける」といった批判がつきものです。
でも生活スタイルは過去には戻れないし、確実に変わっていくのです。

だったら、「昔に戻れ!」じゃなくて新しい生活スタイルに新しい魅力的な価値観をどう提案するかを考えるほうが建設的だと思います。

「常識がなくなった」「古き良き日本の価値観がうんぬん」などの不満を言う前に、
新しい生活スタイルの中でのあるべき常識や価値観をいかに新しく構築していく必要があるのではないでしょうか?
既存の常識を維持しろでは難しいと思いますので、
どういう価値観を持って挑めばいいのかというところだと思います。

ちなみに、僕は最終的には「損得勘定」かな。と思います。
昔の人が礼儀が良かったと言われているのも礼儀がしっかりしていればその分ムラ社会の中で評判が上がったりという「得」があったからだと思うのです。逆に礼儀がなければ損したり。
今の時代、どうすれば「得」ができるのか、どうすると損なのかをしっかりと再定義していく必要がありそうです。

ライター 唐澤 頼充

明日(2/6)、新潟でのゲンロンスクール初中継!によせて



配信テストとかもろもろ行っております、東浩紀氏がプロデュースする「ゲンロンカフェ」で行われる定期講座「ゲンロンスクール」の中継があすに迫ってまいりました。

 哲学や思想と言うと固く聞こえてしまいますが、
僕が東浩紀氏をすごいなと常常思うのは、思想の世界にとどまらないという点です。

 特に震災後の東氏の活動を見ていると、(といってもそこまで追いきれているわけではありませんが)、
一般意思2.0という本では新しい政治システムの提案を
日本2.0では具体的な憲法改正案を
福島第一原発観光地化計画では原発問題への提案を
「具体的に何をすれば良いのか」を提案し、しかも実際に行動に移していると感じています。

 先日ニコニコ生放送で岡田斗司夫氏と対談した際にも語っていたのですが、
「これからは第二政府をつくるしかないんです。」
という言葉が印象的でした。

現状の政府ではない新しい政府という活動で言えば坂口恭平氏が有名ではありますが、多くの人が「自分たちで何とかするしかない!」という潮流は確かなものになっていると感じています。

 これまでの思想家や社会学者が政治に関わる際の主な活動はロビーングだったそうです。
また、実社会への影響を与える手段も書籍によって概念提起を行い、それを受けた実践者が自分なりにアレンジして活動をしていくという、本人が実践者にならない活動が大半でした。

 そのため、思想や哲学というものは、
世間から見るとどちらかというと「実用性に乏しいもの」と言うレッテルが貼られているように思います。

 しかし、哲学的な考え方というのは実は非常に論理的なものです。
そして実態のないものを扱っているため非常に想像的です。

 その想像力や構想力は間違いなく、これからの未来社会を描く上で大きな武器になります。
それを武器として実践しようとしている第一人者が東浩紀氏のように感じるのです。

 私は、ビジネスの現場に入ってからというもの、基本的には実用書ばかりを読む生活をしてきました。経営学、マーケティング、マネジメント、セールス・・・
これらを読めば読むほど、学べば学ぶほど、
最終的には人間の本質を見つめ直さなければならないという立場に追いやられるのです。
本質的なものを追い求めてこそビジネスの成功もあるように感じました。
つまりは、結局のところ人間の本質とは何か?という哲学的な思想に落ちてくるのです。

 僕はこれまで哲学や思想を体系的に学んだこともないし、
難しい古典を読んだこともありません。
それでも東氏の語る言葉は、社会の本質や人間の原理原則というものを感じさせてくれるものでした。
そして、事実東氏は自身でも経営者という立場でビジネスに関わり、評論家という立場で世の中を分析し、実践者という立場で政治的社会的な活動を具体的におこなっています。

 その根本にあるのは人間の本質を捉えようとこころみる思想にあるのだと思います。そしてその行動はどんな経営者よりもある種の合理性を感じざるを得ません。また、どんな経営者よりも言葉の説得力がある気がしています。

私たちがこれから皆で作り上げていく新しい未来において、いや、いつの時代であれ社会の中心は人間です。
その人間の本質を深く考え、
どのような社会を作っていくのが望ましいのか?
どのようなビジネスを行うのが望ましいのか?
どのような商品・サービスを提供するのが望ましいのか?
どのような人間関係をつくっていくのが望ましいのか?
そういうことをしっかりと考えていくことが大切だと思います。

 僕は、新潟でゲンロンスクールの中継を行おうと決めたのは、思想や哲学の最先端に地方にいながら触れられる機会というのはなかなかない中で、それが学べるチャンスだと考えたからです。そして、そんな思想的なことを語り合える人と新潟で出会いたいと思ったからです。そして、少しでも地域社会にインパクトを与えられる行動を、ここで出会った人たちとできればと考えたからです。

まあ、そんな堅苦しいことは抜きに、興味本位で思想というものに触れて欲しいと思っているので気軽に参加して欲しいなと思います。
僕もこれからゲンロンスクールを通じて学んでいきたいと考えておりますので。

 ということで、いよいよ今週水曜日6日からゲンロンスクールのネット中継が始まります。
6日は思想家・作家の東浩紀さんの講座です。「『一般意思2.0』とその後」というテーマで下記のような内容となります。
《引用ここから》
ーーーーーーーーー
講義概要
初回授業は特別ゲストとして清水亮氏をお呼びします!
2011年に出版し大きな反響を呼んだ『一般意志2.0』。しかし(著者から見ると)内容は十分に理解されているとは言いがたく、さまざまな誤解を呼んでいる。また単著にまとめるにあたり、割愛したアイデアも多い。
たとえば、なぜフロイトの精神分析が副題になるほど重要視されているのか、著書の内部ではほとんど説明されていない。ルソーの恋愛観や告白観と社会契約論の関係も記されていない。読みやすさを重視したためだが、しかし本当は、そのような「枝葉末節」こそが、『一般意志2.0』のアイデアの本質を支えていたのである。
というわけで、この講義では、そのような瑕疵を補いつつ、著者の考える人間観、社会観をあらためて整理するとともに、その実践的な含意についても議論したいと思う。受講にあたっては格段の哲学的知識は必要としないが、抽象的思考に取り組もうとする意欲は求める。
『存在論的、郵便的』は思想の本、『動物化するポストモダン』はオタクの本、『一般意志2.0』は政治の本、と分けて考えることはできない、というのがこの講義で示したいことである。
ーーーーーーーーーー
《引用ここまで》

参加希望者の方はお申し込みフォームよりお申し込み手続きをしてください!
【申し込みはこちら】https://sv35.wadax.ne.jp/~pm-factory-com/genronschool/inquiry.html
多くの皆様のご参加をお待ちしております!

ゲンロンカフェのイベントを新潟で生中継します!





東京・五反田に新型イベントスペースがオープン!


Twitterフォロワー数11万人以上、「一般意思2.0」の著述や「株式会社ゲンロン」の代表として、雑誌「思想地図β」を刊行するなどの活動で知られている思想家・東浩紀(あずまひろき)氏(@hazuma)。20年以上思想・批評業界で生きてきた東氏が、その経験を活かしてプロデュースする「ゲンロンカフェ」が2013年2月1日東京・五反田にオープンします。カフェ併設のイベントスペースで、講演や対談などのトークイベントが開催される文系と理系が融合する新しい空間となりました。東氏は「ゲンロンカフェのオープンは、東京の知的風景を変えるとけっこうマジで信じてます。みなさんよろしく!」(2012年12月4日)とTwitterでつぶやいています。


月8講座を新潟で生中継!



p&mとLogicaが主催し、ゲンロンカフェで行われるイベントのうち、ゲンロン代表の東氏がプロデュースし、自らも教壇に立つ「ゲンロンスクール」。2~4月期に開催される8講座を新潟市内で生中継します。3ヶ月連続の講義形式イベントで、ビデオチャットでの質疑応答が可能。日本で最先端の思想・批評の空気を新潟にいながら体感できます。東氏はもちろん、ジャーナリストの津田大介氏や批評家の市川真人氏、村上裕一氏などの講義が予定されています。


刺激的な仲間を探そう!


「哲学や思想に興味を持つというのは、じつにオタクっぽいものです。そしてオタクはつねに仲間を求めている(笑)」と東氏はTwitterでゲンロンカフェへの想いを語っています。地方ではその仲間に出会うことのできる確率は東京のそれと比べ非常に低いのが現実です。新潟でのゲンロンカフェの中継イベントを、新潟で哲学や思想に興味を持った仲間と出会いの場を提供できればと考えています。


新潟に新しい風を吹き込もう!


出会いが行動につながる。新潟県人の気質として、辛抱強さや、健気さは定評があるものの、「人柄は良いが、積極性に欠け、安定思考が高い」というものが定説です。先行きが不透明な中、もっと私たちも新しいものを取り込み、新しい行動をしていく必要があります。コミュニティの時代が来ると言われている現在、ここで出会う知的な仲間たちと何かしら行動を起こしていきたいと考えています。

「p&m×Logica」WEBサイトはこちら
http://pm-factory.com/genronschool/index.html


からさわ

就活や仕事に悩んでいる方へ、あなたがいなくても世の中は回ります

就職活動の失敗を苦にして自殺してしまうという「就活自殺」が増加しているらしい。
このニュースは非常に悲しい。

今の世の中は、自分がいなくても誰も困らないほど社会システムはもう出来上がっている。
その中で社会に対してどのような価値を提供していくのか?かなり多くの人が問われていると思う。
その中で、生きるために仕事をしなくてはいけないというのはもう成立しないのではないかとも考えている。

だから、働かないもの食うべからずというのは成立しないように思う。
芸術家が世の中に居ないと死んでしまう人なんていないはず。

そう考えると芸術家は仕事をしているのではなく、遊んでいる。
遊びがマネタイズされていると考える方が大切な気がする。

さて、世の中に不可欠な仕事をしていないのは、芸術家だけではありません。
これまでの世の中もそうだったのだけど、社会にないと人が生きていけないなんて仕事はもう随分少ないのです。
そう考えると、誰もが自分の遊びや余剰価値を、評価してもらってマネタイズしているのかもしれない。

就職活動に失敗して、それを苦に自殺してしまっている人がたくさんいるらしい。
「社会に必要とされていない」そう思ってしまう気持ちは痛いほどわかります。

だけど、そもそも「社会に必要とされている仕事」なんて世の中には全然ない。
大半の会社が、別に社会的意義なんかないんだと思う。

そう考えれば別に就職できなかったからといて悩む必要はないんじゃないかな。
別に就職して仕事をしている人だって大して社会に貢献しているわけじゃないんだから。

僕はマーケティングコンサルタントとしてサラリーマンの身分で約5年間活動してきたけれど、そのあたりは非常に疑問に感じていた。

果たして支援先のこの企業が世の中に必要なのだろうかと?
そう考えると今の世の中は代替可能なものに溢れすぎている。
世の中の大半の企業が、別にその企業がやらなくていいこと事業にしているものばかりだ。

だったら僕らは何を考えてこれから生きればいいのだろうと、すごく深く考えた。 答えはまだわからない。

だけど、一つ言えるのは。「世の中のため」なんて大きなことを考えないで。たったひとりの誰かのために何かをしてあげる。それだけでいいんじゃないか?と言うこと。

就職できなかった人は、例えば自分の両親や友達を、ちょっと助けてあげる。手伝ってあげる。それだけで生きている価値があると思う。

そういう目の前の人を少し助けるという行為が、いつかマネタイズされるような気がする。そうなれば自分の身近な人だけを助けていることが立派な仕事になるし収入の手段になるんじゃないかと。

そういう新しい社会の可能性を僕は自分なりに示したいと思う。 そういう生き方というレールを引きたい。 だから会社もやめてフリーでやってみている。

だから、就職できないで悩んでる人たちは決して自殺なんて考えないで欲しい。 君だけが「社会に必要とされていない」なんて思わないで欲しい。

社会に必要とされている人なんていないんだということに気づいて欲しい。 そして社会なんて大きなものを見ないで、身近な、周りにいる人を見見て欲しい。 その人たちを少しでも助けるだけで、あなたは生きている価値がある。

どうかもっと誰もに優しい社会でありますように。

ライター 唐澤 頼充