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日本人の西洋人と異なる価値観「無限概念」に関する猪子寿之氏の発言をまとめてみた


ウルトラテクノロジスト集団チームラボの代表を務める猪子寿之氏のYoutube動画をいろいろと見ていたら面白い動画を見つけたので内容を書き出してみました。
トーキョーニッチというイベントで語った未来の価値観についてのひとコマです。

動画で見たい方はこちら

「インターネットの出現によって人間の価値観が有限概念から無限概念に近づいて行く」と猪子氏は語っています。
かつて一世を風靡した「限定モデル」などのありがたみというのは昔に比べると薄れている、と感じている人は多いのではないでしょうか?
それは無限にデータを複製できるデジタルデータが生活の隅々まで行き渡ってきた現在、有限なものが価値があるという考えから、「無限」が当たり前だという世界に近づいているからだそうです。
そして今後は特にネットの中では「無限概念」が当たり前になってくる。
その中で活躍できるのは日本人なのではないかという意味の発言を猪子氏はしています。

有限概念で成り立つ西洋が作った現在の世界

そもそも資本主義モデルや高度な金融モデルは有限概念によって作られました。それは、西洋的思想だそうです。
産業モデルを作ったのは西洋なのでそうなのかもしれません。
そして今の世の中は、基本的には有限概念の下で動いています。需要と供給によって価格が決まるというのがその典型です。
しかしインターネットの出現で「有限」に違和感を感じる人が増えてきているというのが猪子氏の意見です。
その中で、有限概念と対立する無限概念という考え方を昔の日本人はずっと持っていたという議論が動画ではされています。

日本はもともと有限概念が希薄であった

日本人にはもともと有限概念が希薄だったそうです。
それは、日本の森林率が高いことがひとつの証明になるそうです。
都市を作つためには木材燃料が欠かせません。そのため、文明が発展した地域ではすべからく森林伐採が進み、森林率が極端に低下していきました。ヨーロッパはかつては森林がたくさんありましたが、文明の発達とともに森林率は下がり現在でも非常に低くなっています。イギリスに至っては森林率は8%だそうです。

一方で、日本は現在でも森林率が70%もあります。もちろん地理・地形的な要因もあるのですが、そこには日本人特有の無限概念が働いているというのが猪子氏の意見です。
「日本人は森林は無限だと思った。だから植えれば生えてくると発想した。」
日本人は世界は無限だと思っていたから植林文化が生まれ発達した、そうです。

アートで見る西洋の有限概念と日本の無限概念

さらに、アートの世界でも違いが見えるそうです。
アートは有限が故に、西洋ではあるアーティストの人気が出ると価格が爆発的に上がっていました。

一方で日本は、葛飾北斎などの絵師の人気が出ると・・・刷れ~!!と量産する方向に向かっていったそうです(笑)
西洋では有限がゆえに価格が上がる方向に進む一方で、日本では13版も刷る!など無限に生産する方向に進み、さらには品質も下がって価格も下がっていったそうです。

また、日本で有名な絵師の集団「狩野派」は弟子が100人!
同じクオリティの絵を描ける人材を量産していった点も、日本人の無限概念的な価値観があるのではないかということです。

有限概念と無限概念のインセンティブの違い

そもそも有限概念と無限概念とではインセンティブの働き方が異なるそうです。
例に挙げていたのは同じくアート。
西洋的有限概念の場合、アートで儲けようと思ったら、借金をして今人気のアーティストの絵を購入し、殺し屋を雇ってそのアーティストを殺すと、購入した絵の価格が跳ね上がるというものです。そのアーティストが死んだことで「有限」が確定するため、価値が上がるそうです。
つまりは、殺す方にインセンティブが働くとのこと。
一方で日本的な無限概念の場合、加納永徳爺ちゃんが生きれば生きるほど弟子が増える!そうすれば生産量が増える分儲かる!少しでも長生きしててくれ!と、生きる方にインセンティブが働くそうです。

また、恋でもインセンティブの働き方が異なります。
有限概念の場合は恋敵をやっつける方にインセンティブが働きます。
しかし、無限概念の場合、「むしろ一緒にしようよ!」「自分の耐久力よりも長くエロい姿を見れる(笑)」と一緒に楽しむ方向にインセンティブが働きます。
つまり、無限概念は総量を増やして楽しむ方向に向かうそうです。

このインセンティブの働き方の変化はこれからのネット事業のあり方を大きく変えていくのではないかという予感がしました。そしてその中で、日本人がかつて持っていた価値観というものが非常に神話性が高いように感じます。

ネット上のクリエイティブは無限概念で拡大していく

インターネット上のコンテンツは、ほぼ無限にコピーできるデジタルデータです。デザインもアプリも無限に展開できます。
そのような社会に対して、日本人のかつての無限概念というものがかなり武器になるのではないか・・・と語る前に動画が終わってしまっているのですが、想像でそういうことが言いたかったのかな?と思います。

なんにしろ、この日本人論というのが面白かったのと、ネット社会のクリエイティブの方向性のイメージということでとても面白い動画でしたので、テキストにまとめてみました。猪子氏の日本人を語るときの話はとても面白いので、また別のものを紹介してみたいと思います。

動画を見たい方はコチラ!

ライター 唐澤 頼充

複数の収入源を得るために考えなくてはならない3つの視点

あけましておめでとうございます。
昨年は会社を辞め、自分でいろいろと事業を起こそうと行動した年でした。
今年はもう少しマネタイズできる仕組みづくりに力を入れ、結果を出していきたいと思います。

世間では、先の見えない社会情勢を受けて「複業」つまりは、複数の仕事を行い、収入源を分散させるといった考え方が増えてきています。
だからといって闇雲に様々な仕事に手を出すのは時間に限りがある人生においては得策ではありません。

その際に、私は次のように仕事内容によって収入を分類して考えています。
 1.時間・スキルを売って得る収入
 2.コンテンツを売って得る収入
 3.ファンコミュニティによる収入
それぞれについて概要と特性を書いていきたいと思います。

1.時間・スキルを売って得る収入

 その名のとおり、自身の時間やスキルを売ることで収入を得る手段で、世の中に溢れる仕事の多くがこれに当たります。
 単純に時給に換算されるバイトなどの仕事はもちろん、サラリーマンもこのカテゴリでの収入だと考えています。
 サラリーマンは務める会社に対して自分の時間やスキルを売る代わりに対価としてサラリーを受け取っているからです。
 またフリーで仕事をしている人も多くがこのカテゴリで自分の時間やスキルを切り売りしています。
 時間だけ売るのバイトなどであれば定収入ですが、特殊なスキルや高度なスキルを持っていれば高収入となります。
 このカテゴリで収入を上げるためには、「スキルを磨き単価を上げる」か「スピードを早くし仕事量を増やす」の2つしかありません。
 投資が少なくて済みリスクは低い一方で、収入を上げるためには限界があります。

2.コンテンツを売って得る収入

 コンテンツとは商品やサービスのことです。
 例えばコンサルタントが個別の会社を支援しているのは「1」ですが、そのノウハウをまとめて教材として売り出すなどがこれに当たります。
 同様に何か専門サービスに従事している人が、有料セミナーなどで複数人を対象にするのも専門性をコンテンツ化して販売していると言えそうです。
 有名なレストランやラーメン屋がコンビニメニューなどを監修して売り出すというのもコンテンツ化ですね。
 「1」は制約条件が時間でしたが、コンテンツは同じ時間でも大量に売ることが可能だという特徴があります。
 単純に自分で何かを仕入れて販売するというのもこれにあたります。
 コンテンツを売って得る収入をさらに上げるには販売先を増やすことで増加していきます。
 しかし、そのコンテンツを作るためには、お金で買う、時間をかけて作るなど投資が不可欠です。
 

3.ファンコミュニティによる収入

自分の商品やサービスのファンからの収入です。
 具体的にはニコニコ動画などのプレミアム会員といった有料会員、有名人の有料メルマガなどがこれにあたります。
 また、月謝などの月額サービスもこれに含まれると思います。
 ファンコミュニティによる収入は、安定した収益源になりますが、構築するための労力や、維持するための価値提供は時間がかかります。
 また、爆発的に売上を伸ばすことはできません。

誰しもが、自分の資源として、時間、スキル、お金といったものを持っています。
これをいかに配分して収益を得る仕組みを作っていくのがというのが重要になっています。
「1」だけでは、一生時間を売り続けなくてはなりませんし、「2」だけではリスクが大きすぎます。
そのように考えながら自分で仕事を作り続けていくことがこれからの時代には欠かせない気がしています。

ちなみに私は本格的にフリーランスとして活動し始めたのは昨年の9月ですが、現状は時間・スキルを売って得る収益のみです。
4ヶ月間で「1」で生活していけるだけの収益を得る仕組みはできてきたと思っているのですが、一方で体調を崩したり何か活動できない期間があると、仕事を休んでいる間の収益はゼロです。
一般的にフリーランスはそういうリスクと隣り合わせのため稼げるときに稼ぐよう「1」を頑張っています。
ただ、私はそう言うもしものときも収益が途切れないよう「2」と「3」をバランスよく構築したいと考えています。
なので、2013年はさらに「1」を追い求めて収入を伸ばすのではなく、コンテンツ販売やファンコミュニティによる収入などがバランスよく収益構造の中に入ってくるように構築していくことが目標です。
そのためには、「1」の割合が多少減っても良いかなと思っています。

ということでこれからの活動を楽しみにしていてください。

みなさんも、闇雲に収入増を目指すのではなくこの3つの視点で自分の仕事内容を精査して、ポートフォリオを組みリスク分散をはかってはいかがでしょうか?
2013年も皆様にとって最高の一年になりますことをお祈りいたします。

ライター 唐澤 頼充

図書館での新潟フューチャーセンター勉強会に参加を受けて図書館不要論と未来図書館を論じる

12/22(土)に新潟市立図書館「ほんぽーと」にて新潟フューチャーセンター勉強会が開催されました。
主催者は池野くんと石本さん。
新潟にフューチャーセンター(FC)を広め、地方から新しい社会的インパクトを創りだそうと、2012年の夏から始めたワークショップで、今回で5回目の開催となりました。

 ※新潟フューチャーセンター構想についてはこちら
http://www.youtube.com/watch?v=Chr9OdzC_CE

今回はレゴを使ったプロトタイプで、参加者全員でアイデアを発散しあいました。
ツールを変えるとアイデアの発想の角度が変わるということを実体験できました。

イベントの様子はこちらにアップされています
http://www.facebook.com/events/461352463921356/

さて、今回のテーマは図書館の未来について考えるというものでした。
その場でも私なりのアイデアを出していたつもりですがせっかくなのでブログにもう少し整理して書いておきたいと思います。
結論から言うと私は「図書館の役割は終わった」「図書館不要論」派です(笑)
それについて整理していこうと思います。

図書館の役割

「知の泉」と呼ばれる図書館ですが、全国に3,000か所以上あるそうです。
日本図書館協会によると、1979年の総会において採択した「図書館の自由に関する宣言 1979年改訂」において、「すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する」こと、そして「この権利を社会的に保障することに責任を負う機関」が図書館であることを表明したそうです。
つまり、情報に対して国民が平等にアクセスすることを可能にするために図書館があると解釈できます。
また、フューチャーセンター勉強会で紹介された図書館を構成する要素には、以下の4つがあるそうです。
 ・建物
 ・蔵書、資料、データベース
 ・レファレンスサービス
 ・司書
この4つのリソースを持って国民の「知る権利」、「知の権利」を保障するのが図書館の役割と言えそうです。

インターネットの登場と図書館

さて、フューチャーセンター勉強会での課題提起にもあったのですが、近年のインターネットや電子書籍の普及により、図書館の存在意義が問われています。
インターネットの普及は、図書館が保障してきた「知へのアクセス」を極端に容易にしました。
しかもGoogle等の検索エンジンは自分の探している最適な情報へ導いてくれます。
Wikipediaは、割とアカデミックな情報までまとめてくれ、もはや一生かかっても読み切れないくらいの知の集約となっています。
「○○ってどういうこと?」という疑問はGoogleで調べてWikipediaを見れば十分な知識が得られるようになってしまったのです。
これは、図書館が保証していた「知る権利」のうち、ある程度のことはインターネットで代用できるようになってしまったと言えます。
図書館のレファレンスサービスまでも代用しているとも言えそうです。
インターネットと図書館の違いは、扱っているメディアが「本」なのか、「デジタルデータ」なのかの違いとなってしまいました。

娯楽かアカデミックかのみの価値

「本」のメディアとしての特徴は情報がページ分だけまとめられているという点です。
インターネットの情報が無限につながっているのに対して情報に区切りがあるというのは大きな違いです。
知りたいことに対するレスポンスは明らかに図書館よりもインターネットの方が便利で快適です。
個人的にはこの時点で、図書館の本来の役割は終わったのではないかと思っています。
しかし、情報の海から一部を切り取った「本」という媒体は、ある種のストーリーを持っています。
それは小説や物語といった娯楽か、アカデミックな流れを体系的に切り取った学術書です。
そのストーリー的な情報を取り扱う本が大量にあるという点で図書館は何とかその存在意義を保っているのかもしれません。
図書館は「情報へのアクセス」から「ストーリーへのアクセス」しか利点がなくなったと言えます。

2013年は電子書籍元年。さようなら図書館

そんな図書館に、さらに追い討ちをかけるように「電子書籍」なるものが登場しました。
唯一「本」という媒体を扱っていた図書館は、電子書籍リーダーさえあればいつでもどこでも本にアクセスできる仕組みが確立したことでその役割を終えたと思います。
さようなら図書館である。
国民の情報へアクセスする権利を保証していた図書館は、全て電子書籍リーダーへ置き換わることで完全に代用できます。
むしろ、市町村によって蔵書に限りがあったりといった地域間の格差も、電子書籍リーダーで一発解決する。
 ・国として国民に一人一台、WEBブラウジングできる電子書籍リーダーを配布する。
 ・月に2冊までなど制限して好きな本をダウンロードできる。
 ・返却期限かくると自動的にデータが消える。
 ・国は出版社や著者に電子書籍データを取り扱う上である程度のバックを支払う。
 ・使い方や検索をサポートするコールセンターを開設する。
これで、日本国民は全てデジタル図書館を平等に利用できるようになります。
誰かに借りられていたから返却されるまで待たなくてはいけないという機会ロスもなくなります。
わざわざ図書館に行かなくてはいけないというアクセス性による格差も、移動コストもゼロです。
コスト計算はしていませんが、図書館の建物代、蔵書購入代、司書の人件費など、すべて合算すればもしかしたら今までよりもローコストで済むかもしれません。
極論を言えば、国民の権利を保証するのであれば図書館を維持するよりも電子書籍リーダーを国民全員に配り、図書館的なレンタル機能を実装することが正しいと思います。

場としての図書館の役割はあるのか?

一方で、「図書館は人が集まる場である」、「勉強ができる場である」という議論があります。
「地域の拠点なのだ」といったことも聞かれます。
これに対して私ははっきりと「ノー」と言いたいです。
はたして図書館で過ごす時間というものは、図書館でなければいけないのでしょうか?
勉強する場、会議をする場、セミナーをする場というのは街に大量にあります。
0円で空調が効いており明るい照明、座りやすい椅子のある空間で過ごすことが良いことなのでしょうか?
500円出してでも喫茶店で過ごしたほうが経済に貢献するだろうというのが私の見解です。
図書館が溜め込んでいた人々を街中に排出することで、地域社会にとってはプラスになると思います。
場の提供こそ図書館以外の民間または公的な施設でやるべき役割だと思います。

取り組まれる課題解決型図書館に対する批判

ただし、図書館も新たな価値をみつけようと様々な取り組みがされているようです。
その最たるものが「課題解決型図書館」への転換です。
例えばほんぽーとではビジネス支援をしています。
また農業なんでも相談室や、生涯教育の学びの場を提供している図書館もあるそうです。
これについては一言「専門家がやれ」と言いたくなります。
つまりビジネス支援なら経済産業化とか商工会議所とかが既にやっているのだからそっちを充実さればいいと思います。
農業も専門部署が行政にはあるのだからそっちを充実させればいいのです。
なぜわざわざ図書館がそれを行う必要があるのでしょうか?
本を貸すことが主業務のところにプラスアルファの機能がつくことで主業務にプラスになるのでしょうか?
ならないことはないとは思いますが、むしろ専門部署にプラスアルファで本を貸す業務を付随させたほうが主業務のプラスになると思います。
ということでやはり私の中では、もう図書館の役割は終わったんだと思います。

マテリアルの「本」に触れる機会を残す

しかし、電子書籍リーダーでデジタルデータで本を楽しむのが便利な一方で、ある程度マテリアル〈物質〉としての本に触れることは重要だと思います。
一番のポイントは本との出会いです。
図書館や本屋さんを訪れる大きなメリットはたまたま眺めていた本棚で偶然良い本と出会う確率があるという点です。
しかし、デジタルの世界ではどうしても検索機能に頼ってしまうケースが多いため、求めているものにはたどり着きやすいのですが、偶然の出会いは生まれにくいといった特徴があります。
ただし、「それならばやはり図書館が必要」とはなりません。
むしろ、特定の場所に行かなくてはいけないというのは効率が悪いと思います。
そこで、私はマテリアルとしての本は、展示用として街中のお店やコミュニティスペース、公民館や休憩所などにばらまいて設置すればいいと思います。
それならば街を歩いているだけでマテリアルの本が様々なところに展示してあり、手にとって出会いを楽しむことができます。
気になる本があれば電子書籍リーダーで探すのもよし。
マテリアルとして欲しい場合にはお金を出して買えばいいのです。
本の文化を図書館の中に閉じ込める必要はないのではないでしょうか?

以上、長くなりましたが、現在の形態での図書館運営というものについては私はまもなく必要なくなると思います。
しかし、本に触れる機会というのは街中に広がる。
デジタルデバイスと、マテリアルの本が世の中にあふれる未来の情報インフラができることを願っています。
ぜひ、私の住む新潟市で初めにそういう取り組みをして欲しいものです。

ライター 唐澤 頼充

アフィリエイト社会に関する考察

インターネットの普及とともに、広告のビジネスモデルは大きな変化を起こしました。
特に、「成果報酬型」「成功報酬型」と言われる広告モデルは、インターネットの計測可能性が広く可能にしてきました。

さて、その中でも面白いモデルが、「アフィリエイト型広告」と呼ばれるものです。
そしてこのアフィリエイト広告の仕組みがリアルの小売業でも成立するようになるのではないか?というのが私の考えです。

誰もが広告塔となれる時代

アフィリエイト広告はざっくりと説明すると、WEBサイトやメールマガジンに設置された広告によって閲覧者が広告主の商品やサービス等を購入したりすると、リンク元サイトやメールマガジンの主催者に報酬が支払われるという仕組みです。
これによりブログや個人ホームページでも広告を張り付ければ、広告収入が得られる可能性が膨らみました。
さらにソーシャルメディアの発達により、例えば本の感想とともにAmazonのアフィリエイトリンクを貼っておけば、誰かが購入してくれた際にわずかながらも広告収入を得ることができます。
このアフィリエイトプログラムの良いところは、広告主にとっても広告掲載者にとってもノーリスクであるという点です。
広告主のリスクは広告費に見合う収益が上げられないかもしれないという点。
掲載者のリスクは広告の反応が悪かった際に、広告主からの印象が悪くなったりする点です。
しかし、成果報酬という仕組みが現実になったことで非常に小さい枠の広告が成立するようになったのです。

ネット上でノーリスクで商売が始められるようになった

さらに、このアフィリエイトプログラムを活用したドロップシッピングなるものが登場しました。
これはオンラインショップの運営方法の一形態で、注文が入った時点で商品をメーカーや卸売業者から購入者に直送させる運営形態です。
利益は注文が入った段階で確定するため、在庫を持たずにネット上にお店を開けるようになったのです。
ドロップシッピングは一時期、ちょっとした問題にも上がりましたが、小売店のになっていた販売以外の発注や仕入れ、在庫管理といったことが必要なくなるという画期的な仕組みだというのが私の印象です。

ネットワークビジネスのビジネスモデル

さて、少し話は変わり、世の中にはネットワークビジネスというものが存在します。
マルチ商法などと言われ、嫌われている感がありますが、ビジネスモデルだけ見ると非常に面白い仕組みになっています。
ネットワークビジネスのモデルは広告費を使わずにクチコミで販路を拡大するというものです。
「広告費の費用を商品の品質に回し、良い商品をより安く」をモットーとしています。
そしてクチコミで販路を広げるため、購入者を紹介した人には対価が得られます。
また、その紹介者のさらに紹介した人が・・・と詳しくは説明しませんが仲間を増やせば増やした分だけ報酬が増えていくという仕掛けになっており、それがインセンティブとなり販路が広がっていく一方で、トラブルの元になっていたりもします。
しかしこの消費者が自ら広告の役割と小売の役割を果たして増殖していくビジネスモデルは非常にウマイ仕組みだと思います。

リアル世界でのアフィリエイトモデル

さて、このネットワークビジネスとは基本的には「売ってくれたら報酬を払います」というモデルです。
これはインターネットが可能にしたアフィリエイトプログラムと非常に似たモデルのように感じます。
ただし、ネットワークビジネスが会員として所属する会社の商品が取り扱えないのに対して、アフィリエイトモデルはいくつもの商品やサービスを取り扱うことができます。
SONYやパナソニックの商品でも成功報酬的に売れるのがアフィリエイトモデルと言えます。
これまで大企業がネットワーク系のビジネスモデルを取れなかった、もしくは取らなかったのは基本的に計測する仕組みがなかったからではないかと思います。
しかしアフィリエイトプログラムが確立した今、リアルの世界でもアフィリエイトモデルが成立するのではないでしょうか?
つまり、商品や在庫を抱えることなく誰もが小売業を行える社会、アフィリエイト社会がやってくるのではないかと考えます。

個人経営の小売店の復活

かつて個人小売店が廃れ、大型店舗が栄えた背景には「大量の品揃えと低価格」があります。
例え人間関係ができている親しい間柄のお店でも、どうしても選べる商品が少ないから、価格が高いからという理由で足が遠ざかっている方も多いのではないでしょうか?
それは、仕入れリスクと在庫リスクを小売店が抱えていたからです。
しかし、例えばAmazonのアフィリエイトの仕組みがリアルに解放されれば、個人小売店は仕入れリスクと在庫リスクから解放されることになります。
そうなると、見本品だけ触ってもらってあとは無限の在庫の中から商品をクリック!するだけで自分にはノーリスクで収入が得られるとともに、商品は消費者の手元に次の日には届くことになります。
こうなると、小売業は「何を買うか?」から「誰から買うか?」に大きくシフトします。
「誰から買うか?」ということは昔から言われていることではありましたが、アフィリエイト社会になるとまさに100%の意思決定が誰から買うかになります。

アフィリエイト社会で個人ブランド競争社会へ

そうなると、人として「人気があるかどうか?」が、お金を稼げるかどうかの基準になりえます。
日用品・必需品、例えば食品や消耗品にもアフィリエイトモデルが導入されると、必ず消費するものを「せっかくだから○○さんから購入しよう」という思考が働くはずです。
どれだけ多くの人とどれだけ親密な関係を築くことができるのか?といったコミュニケーション能力が小売収入に大きく影響するようになるのではないでしょうか?
アフィリエイト社会というものが到来することで、小売の形を大きく変えるとともに、小売業における資本の力が目に見えて弱まるのではないかと予想します。
ますます個人個人のブランドが社会へ影響を与える時代がやってくるとともに、これぞ評価経済社会なのだろうか?とアフィリエイト社会という言葉を思いついてから強く感じました。

ライター 唐澤 頼充

教育を変えなくても大人が変われば子供は育つ

ニュースなどで、「教育改革」ということを見るとイライラしてしまいます。
同じように日本の教育がーとか言っている大人を見るとイライラしてしまいます。
そんなことを考えながらtwitterに書き込んでいたら、我ながら結構いいことを言っているのではないか?と錯覚してしまったのでブログにも貼っておきます!

選挙への参加だけが政治への参加ではない

衆議院選挙の投開票が近づいてくるに連れて、twitterやFacebookのタイムラインは選挙の話題が多くなってきましたね。
特に若者の政治への関心、投票率の向上といったことが目に付きますがどうも疑問に感じます。
そして、政党同士の激しい対立にもどうも疑問を感じます。

選挙では若者の声は反映されない

そもそも選挙では一人一票しか入れられません。
先日、若者の投票率を上げるために活動している学生さんと会いましたが、なぜ若者の投票率を上げなくてはいけないのか納得できませんでした。
若者の声を政治に届けるためだと説明されましたが、同世代の人口が明らかに上の世代よりも少ないのだから一人一票ではいくら若い世代が通したい政治家に投票したところで、数字の上では勝てません。
それがわかっているから、立候補者も当選のためにはボリュームが大きい世代に配慮するようになるのは当たり前です。
結論として、「若者の声を政治に届けるために、投票率を上げるようにしよう!」というロジックは納得できないのです。

政権を取るべき政党がわからない

今回の衆議院選挙の争点は景気対策や原発を発端とするエネルギー政策、TPP、消費税増税、国防問題など多岐に渡ります。
それに対して国民それぞれが100%支持できる政党はありえないのではないでしょうか?
アメリカの共和党と民主党のように支持層が全く違うため政党の政策が異なるケースはわかりやすいのでしょうが、日本のいまの課題というのは結構明確でどの政党も政策面ではほぼ同じです。
同じ政策に対して取り組むのが早いのか?遅いのか?とかいった違いしかないように感じます。
そうなると判断基準は「実行能力」になってきます。
「実行能力」で見れば現政権正当である民主党は「実行できません」ということを証明し続けてきたので厳しいと思いますし、新党も未知数。
そうなるとやっぱり自民党になるのかな~という結論になってしまいます。
ただ、ここで問題として思うのは、「同じことをするんだから政党同士で対立していないで、一緒に協力してやれよ」とか思ってしまうのです。
この政党問題は、政党ばかり気にして、自分の小選挙区の立候補者の実力や考え云々ではなく、どの政党の公認候補なのかで判断されてしまうのもなんだかなーと思ってしまうのです。

選挙なんて意味がない

繰り返しになりますが日本の取り組むべき課題というのは結構明確です。
そうなると政権をどこが取ろうと、やらなくてはいけないことは変わらないのです。
わかりやすい原発問題で言えば、いつかは脱原発しなければならないのは当然です。
そのためにどうやって次世代エネルギーに移行していくのかとかというのは、実現可能性をしっかりと検討すれば誰がやろうと最適解というのが出てきます。
結局、目新しく魅力的なマニフェストが掲げられたとしても、民主党のように「やっぱできませんでした」と現実路線に落ち着くのです。
だから、選挙で熱くなっても実際にやることというのはあまり関連性がないように感じてしまうのです。
選挙なんて結局意味がないんです。

また、例えば若者は自分たちが支持する政策を打ち出している人を頑張って頑張って当選させるというのもいいですけど、いざ当選しても、国会の多数決で政策が可決されるにはさらなる労力をかけなくてはいけません。
効率が悪すぎるのです。

別の政治参加の活路を

とは言え、政治に国民が参加しなくても良いか?と言うとそんなことは思っていません。
もっと効率の良い政治参加をする方法を見つけるべきだと思うのです。
選挙を通じて自分たちの考えを政策として実現するというのは、はっきり言って効率が悪いのです。
それであれば、既に当選している人に自分たちの考えを伝える場を作るほうが手っ取り早いはずです。
政治家も人間です。
直接会って、自分たちの現状と解決への方針案をしっかりと伝えれば納得してくれる可能性が高いはずです。
選挙というのは、「これをやります!」という人たちに賛成!と伝えるだけです。
そうではなく、日本を良くしようと思っている人たちに、「これをやってほしいんです!」と伝えることが求められているのではないでしょうか?
いつまでも賛成反対と言っている政治参加ではなく、
「私はこういう問題を抱えているんだけど」「私はこう思うんだけど」という生の意見を伝えられるような政治参加をしていくべきではないでしょうか?
だから、投票率を上げよう!と頑張っている人たちは別の方法で頑張ってくれた方が効率がいいので、ちゃんと考えてやってください。

ライター 唐澤 頼充

日本人が日本人であり続けるために道徳を大切にしよう

岡田斗司夫さんと古市憲寿さんの対談「道徳の時間」というyoutubeのダイジェスト動画を見ました。

岡田斗司夫さんは最近【道徳】というものが今後、日本に必要なのではないかとよく言っていて、それに関する活動を始めているようです。
その活動の一つとして知識人との対談を行っています。

道徳とは
「人間が無意識の内に世の中に存在するものと認識している正邪・善悪の規範。個人の価値観に依存するが、多くの場合は個々人の道徳観に共通性や一致が見られる。」
(wikipediaより)
という意味だそうです。

そういえば私も道徳の授業というものを学生時代に受けたことがありますが、実際に授業の内容というものは全く記憶にありません。
そもそも何を教えるのか未だによくわからないので、どのような教育が適しているのかというのはよくわかりません。
ただ、このダイジェスト動画を見て思うことがあったのでまとめておきたいと思います。

道徳とは「日本人らしさ」を身につけるために必要

道徳の意味に含まれる「正邪・善悪の規範」という物は、極端に言えば個人個人異なります。
その共通点が集まって地域性や国民性を作っているように思います。
例えば、欧米文化圏ではYes・Noをはっきりさせるのが善であるというイメージがありますが、日本では奥ゆかしさや曖昧さが美徳であるというイメージです。
このように何を良しとし何を悪とするかという共通認識はその民族や文化を形成するうえでかなり重要になっていると思います。
私たち日本人の、「謙虚であれ」であったり、「郷に入っては郷に従え」という価値観は、私たちが善悪観念を共有しているからこそ成り立つことのように思います。
近年のグローバル化の流れの中で、どうやって自国のアイデンティティを保つのか?というのは、この日本人のあいだに共有する道徳観というものが必須のように感じます。
道徳観が共有している部分が多ければ多いほど「日本人らしい」と言えるのではないでしょうか。

共通道徳を作るには

動画の中で、道徳の授業とは物語のようなものを読み聞きするという内容だったとお話がありました。
昭和初期は楠木正成など歴史上の人物のストーリで学んでいたそうです。
昭和中期はストーリーもののビデオを。平成の初期も同様にビデオを見る授業だったそうです。
つまり、私たちはストーリーや物語の中から道徳を「感じる」もののようです。
動画の中で出てきた面白い視点のひとつに
「ストーリーで学ぶならONE PEACE(有名漫画)でいいんじゃない?」というものがありました。
これはかなり納得です。
「オタクの人は保守的な人が多い。勧善懲悪の物語をマンガやアニメで嫌というほど見続けているから」
といった話もあり、なるほど~と納得。
週刊少年ジャンプの有名なスローガンに【努力・友情・勝利】というものがあります。
つまりそのスローガンを物語を通じて感じ取って欲しいというのです。
これはかなり衝撃で、もっとみんながマンガやアニメなどの物語を見ると共通道徳というのが出来上がっていくのではないかと感じました。
確かに私たち世代は、ドラゴンボールやスラムダンクなどのヒットマンガに触れた世代なのですが、作品から学び取ったある種の共通認識であったり共有概念があるように感じます。
ということで、道徳的な概念を盛り込んだ漫画でもアニメでも映画でも小説でもなんでもみんながもっと消費するようになれば日本人らしさ=共通道徳というものが形成されていくのではないかと感じます。

グローバル化の中で自国のアイデンティティを維持するには

グローバル化と聞くと、企業だけのもののように感じますが、現在様々なものがグローバル化しています。
「食料」や「工業製品」などはもちろん、英語などの公用語となり得る「言葉」、ドルなどの「お金」、二重国籍などの「国籍」、「文化」、さらにはEUのように「政治」までもグローバル化しています。
このような中、「日本に住まなくてもいい」といった人たちも増えています。
お金持ちの人たちは税金の高い日本から脱出するなんてことも言われています。
そのような中で、「日本人である」というアイデンティティを維持するために必要となるのがこの共通道徳のような気がしています。
日本人なのだから○○という善悪のモノサシを共有していることというのが日本人であるという最後の拠り所になるのではないでしょうか。
それは人種や民族、国籍にもよらないということです。
日本的な共通道徳を持ち、それを愛する人が日本の文化を守る【日本人】なのだという認識です。
日本民族であっても共通道徳を愛さない人は、ちょっと違うところの人と見てもいいのかなと。
今後、世界政府なんてものが出てきた時に日本人とは何かを問われた時に、「日本的な共通道徳を持っている人」というのは結構いい線じゃないかと考えています。
だから、もっとオタクが増える世の中になれば素敵だと思います。

ライター 唐澤頼充

シェアハウスに住み始めたわけ

11月に入ってから新潟市西区寺尾にあるシェアハウスに引っ越して住み始めました。

入った物件は、新潟市にある「殻殻ふぁくとりー」さんと言う一級建築士事務所が仲介している物件のひとつで、
新潟しぇあはうす寺尾上」という名称のシェアハウスです。
庭付き一軒家に、個室が6室ある家になっています。
もろもろの事情がありそれまで住んでいたマンションを引き払うことになったため、新し住処を探していたのですが、最初から次はシェアハウスに住みたいな~と思っていました。

シェアハウスに住もうと思った理由はいくつかあります。

初期費用・生活コストを抑える

大きな理由の一つが生活コストの削減です。
単純に自分で部屋を借りるより家賃も初期費用も安く済みます。
私の場合は、初期費用はデポジットの1万円。月額は三万円前半で光熱費はその中に含まれています。
個室は6畳と広くはないですが、10畳くらいの居間と同じく10畳くらいのキッチン、ウォシュレットの付いたトイレと、追い焚き機能の付いたお風呂が自由に使えます。
洗濯機、冷蔵庫、コンロ、電子レンジ、調理器具、食器類もほとんど揃っているので生活を始めるに当たって買い足す必要がありません。
通常のアパートやマンションを借りるとなると敷金・礼金、仲介手数料などはもちろん家具一式揃えるだけでもかなりの金額になります。
その点、シェアハウスを選ぶとその辺りのコストがかなり削減されます。
また、洗剤や調味料、食材、ゴミ袋などの諸雑貨などを同居者とシェアすることで日々の出費も抑えられます。

誰かが居れば寂しくない

一人暮らしは自由気ままな一方で、時に寂しいものです。
その点、家に挨拶をしたり、会話を交わすことができる相手がいるというのは良いものです。
ルームシェアと違い常に同じ部屋にいるわけではなく、個室もあるので、気分が乗らないときは自室にいればいいし、誰かと話したいときには居間に行けば気がまぎれます。
面識のない人と一緒に住むというのは抵抗を感じる方もいるかと思いますが、個人的には世の中にそんなに悪い人は居ないと思っているので大丈夫だと思います。
というのも、Facebookやtwitterをやっている人であれば、酷いことをすれば公然と批判される可能性があります。
ソーシャルメディアの時代にその中で批判されるのは致命的です。
ビジネスをやっている人であれば、売上に響く可能性があります。
しかも、「家」という空間の中での素の自分がいい奴か悪い奴かという評価が流通するのです。
これはかなりの抑止力になると思うので、面識のない人でもシェアハウスに住もうと思っている人は結構いい人のはずだと勝手に思っています。

人が集まるオープンな場を作りたい

私がシェアハウスに住もうと思った強い動機は、人が集まるオープンな場を作りたいということでした。
家という生活空間を起点に、様々なコミュニティが生まれれば良いなと期待しています。
例えば私は朝まで生テレビの様な討論を人を集めてゴリゴリしたいのですが、マンションやアパートだと隣の世帯に配慮してなかなかできません。
そもそも一人暮らし用の家では人が入らないかもしれません。
再現したいのは学生時代の部室や寮のように、自由に、しばられずにできる空間です。
そこに社会人ならではの生産性を求めても行きたいと思っています。

住人ではない人もどんどんと遊びに来て欲しいと思っています。
例えば、私はビジネスやマーケティングのコンサルティングスキルがあるので、話を聞いてみたいだったり、相談したいという人がふらっと遊びに来るような・・・
またその他の住人のスキルをアピールすることで人が来たり。
勉強会を開いたり。
飲み会を開いたり。
討論会を開いたり。
などなど
空間をシェアするだけではなく、スキルやネットワークもシェアできるような。
そんな場があったら楽しいだろうなと考えてシェアハウスに住むことにしてみました。

また、私の仕事上、篭ることも多いため、油断していると全然人に合わない生活になってしまうため、勝手に家にいろんな人が来てくれるという仕組みはいいなーとも思いまして。。。

というわけで私のシェアハウス生活がスタートしたわけですが、
実は一戸建てのシェアハウスに現状一人で住んでいる状態です。
できたばかりのシェアハウスに取りあえず一番に手を挙げて住み始めたので・・・

なので、この記事を読んで少しでも気になる!!といった方は是非、新潟しぇあはうす寺尾上への入居をご検討くださいませ!!

ライター 唐澤 頼充