縄文人はマンモスを滅ぼした

マンモスは縄文人によって絶滅されたという。
経済、近代に入ってから「自然が滅ぼされた」と言う人がいるがそれは違う。人間は太古から自然を守ってなどいなかったのである。

手付かずの自然というのは、屋久島や白神山地の原生林のようなもので、それ以外の自然は全て人の手が入っている。いわゆる人工的に作られた自然だ。

それは河川も同じで、関西の淀川も関東の利根川も、中世の頃から人間に都合が良いように人工的に川の流れを変えて作ったものである。

人間の暮らしはいつの時代も自然との戦いだ。
自然そのままでは安全性の面でも人間が生活しやすい環境ではなかい。
そういう意味では、人が自然に手を加えているのは今も昔も同じである。

中世の頃は「自然と調和していた」と言われるが果たしてそうだろうか。
日本では江戸時代などは安定した時代と言われるが、それは人間に都合が良い効率化した部分と、自然維持がたまたま良いバランスで保たれていただけではないだろうか。

一方、ヨーロッパは中世の時点でバランスが崩れてしまい木材燃料が枯渇していた。暗黒時代に象徴される時代がそれであろうし、大航海時代は枯渇した資源を求めて外に出て行った面もあるだろう。

日本はその時代の人口規模や気候だから、たまたま自然との調和がとれていた程度にすぎない。

江戸時代は、生活に余裕があったから自然と共生できていたのかというと、そんなことはない。江戸時代の享保大飢饉の時には100万人以上が餓死したという。決して余裕があったわけではなく、ギリギリのところで効率化を測り、自然と戦っていたのだ。たまたまその時の技術力では、今ほどの自然への影響が出にくかっただけではないだろうか。

江戸時代の自然と人間とのバランスを「技術≒自然」と考えると、近代になって技術革新が進み、「技術>自然」となった。それにより、負の面として自然が著しく破壊された。
一方で飢饉や、3.11震災で食料が生産できなくても餓死者が出ないくらい、危機への備えができるようになった。

昨冬の豪雪の時にも、最小限の被害に抑えることができた。
近代化によって成し遂げられた、公衆衛生の改善や危機への備えを忘れてはいけない。

環境問題や自然保護を考える上で、縄文人がマンモスを滅ぼしたことも忘れてはいけない。
私達は前近代に戻るだけでは何も解決していない。近代化のその先にこそ、新しい自然との調和の道を見つけられるのだと考えている。

唐澤頼充

伝統や地域文化を「守る」のではなく「新しく作る」

4/27、『角海浜物語』×『阿賀に生きる』いろり座談会&上映会、というイベントに参加しに、西蒲区の岩室と福井に行ってきた。
当日の朝は、「まきどき村」という農作業をしてから朝ごはんを食べるという素敵なイベントがあり、それにも参加したため、朝の4時半起き。夜型人間にとっては非常にハードだったが、久しぶりに農村文化に触れることができ、とても豊かな日曜日を過ごすことができた。
10時から開催された映画「阿賀に生きる」の上映会。そして14時からのいろり座談会。さらには17時からの懇親会にも参加させていただいた。それぞれに、かつてあった農村文化の豊かさ、失われていく文化の現実を様々な角度から考えさせられる会だった。
この会のテーマについては、公式ホームページに意図が記載されているので参照して欲しい。
さて、古き良き文化、生活が失われていく。これはとても悲しいことでもあり、勿体ないことでもある。私は大前提として「農村文化」や「地域の伝統」というものは、残していきたいと思っている人間だ。ただ、その方法論として、「前近代に帰る」、「自然に戻る」と言った論調にはあまり賛同できない部分がある。
「地域文化を守ること」と「経済成長」は、対義語のように扱われる事が多くあるが、両立をさせることができるのではないか。会の間、そんなことをずっと考えていた。

座談会の中で、福井集落に住む斎藤文夫さんのお話の中で、福井集落の河川工事の話があった。ホタル舞う川を残すため、通常の河川工事ではなく、自然を残した形の整備をするため、行政や議員などに掛け合い、大変な苦労の末、成し遂げたという話だ。
実際に朝、畑作業をした後で、整備された川を散歩したが、なるほど自然豊かな川が人工的に作られており、地域の景観そして生物の多様性を守っているのだなぁと思った。
ただ、もう一方で「ものすごいお金がかかっているな」とも感じた。事実、座談会の中で斎藤さんもウン億円の工事費がかかったというような話もしていた。通常の河川工事よりも莫大な費用がかかっているということだ。
これは、自然をただそのままに残した、昔に帰ったという話ではなく、「経済成長」という基板があってこそ「自然を守ることができた」のだということだと思う。
経済成長があったからこそ、自然保護ができた。裏を返せば、自然を守るためには経済成長が不可欠だったとも言い換えられるのではないだろうか。
会場となった、福井旧庄屋佐藤家は茅葺屋根の素晴らしい日本家屋だ。
この建築も、実は一度家主が壊そうと決断したことがあったそうだ。それを、斎藤さんらが中心となり保存しようという話になったのだという。
かつて個人のものだった福井旧庄屋佐藤家は、今はボランティアやら補助金、またはこの日のようなイベント会場としてなど、多くの人によって維持管理されている。そして、かつては「住居」であった福井旧庄屋佐藤家は、今は「人が集まる場」としてその役割を変えている。
尊い農村文化、地域の伝統、自然豊かな土地。これらは絶対に残していくべきものだと私は考えている。
その方法として「今のまま残す」や「自然に帰る」ではなく、近代化や経済成長の上に「新しく作る」ことが大切だと思う。福井旧庄屋佐藤家のように役割を変えるのだ。
地域資源を使い、新しい価値感を提案する時代へ。近代化をさらに推し進める。近代化のさらなる先に地域文化の保全や自然との調和を実現することができるのではないだろうか。
文化を新しく作る。これからはそういう時代だと思うとワクワクしてくる。
唐澤頼充

「環境に優しい生活をしよう」と言っている人たちが嫌い。

タイトルの通りだが、私は自然とか、環境とか、そういうものを大切にしよう!人間は自然に帰るべきだ!という人たちの言うことが全然ピンとこない。

先に私の経歴を述べておくことにする。

私は大学は農学部を出ている。農学部に進んだ理由は、いろいろとあるのだが、端的にいうと「環境にやさしい農業を模索したかった」からだ。
4年間大学に在籍してさまざまな経験をしたし、農業の現場や書物、実験室、実際に集落に入るなどして色々と勉強をしてきたつもりだ。たかが4年。されど4年。

その中から一つの結論を言わせてもらえば「農業は人間の最初の環境破壊だ」ということ。

田畑を見て欲しい。そこには単一作物だけが生息している。単一作物しか存在しない空間というのは、自然界の中では明らかに異常だ。生物多様性を無視しているのだから。

「自然豊かな農村」はあくまでも人間の食料生産基地として都合が良いように作り替えられた人工物だ。あくまでも人間にとって「良い環境」なのであって、自然そのものではない。そういうことをしっかりと理解する必要がある。

人間は、ただ生きていくために食料を生産するだけで、自然環境を破壊しているのだ。

人間が生活をする以上、生きていく以上、自然を自然のままにしておくことはできないのだ。人間が手を加えた段階で、環境には何かしら影響が出る。自然にやさしい生活など幻想だと思わないのだろうか。

彼らの言う「環境」や「自然」とは、あくまでも「人間にとって都合の良い環境」であり、「人間にとって都合の良い自然」だ。それはそもそも人工物なのである。その人工物を受け入れるのであれば、近代化を受け入れないのはダブルスタンダードになるのではないか。

完全に自然の中で生きていくとなると、人間は「狩猟採集生活」をするしかない。そんなものは今の時代の人には無理な訳で、中途半端に自給自足的生活をして「自然とともに生きる」と道化のようなことをしている。

私は、自給自足生活についても正直、嫌悪感がある。なぜ、かつての自給自足生活から、今の近代化をしたのか。それは、「より多くの人を生かすため」ではないか。より多くの人が、食料の心配なく暮らせるようにするためには近代化が必要だったのだ。それを、「自給自足に戻ろう」、「自然に帰ろう」と言っている人たちは、言ってしまえば「自分だけ良ければそれでいい」という人なんだと考えられる。多くの人に死ねと言っているのと同じなのだ。

環境破壊である農業と、都市のビルの何が違うのか?私は、どちらも人工物という意味では同じだと思う。断っておくが、私は農村の風景や、土地は好きだ。農作業も好きだし、里山など素晴らしいと思う。
しかし、都市も農村もどちらも人工物だとも思っている。
同じ人工物なのだから、農作物は植物工場などで作ってもらったもので全然かまわないし、むしろそうするべきだとも思っている。

都市も、かつての里山も、その時代時代で「人間に都合の良い環境」を作り上げたものだ。私はそれを肯定しているだけである。そう。自然破壊はぜんぜんOK!していいよ!という立場だ。電気サイコー!だって便利だもん。という立場なのだ。

一方、人工物反対!自然は自然のままで残そう!と言っている人たちは、生きているだけで自己矛盾が生じる。だって、生きているだけで自然を破壊しているのだから。生きないことが、自然に手を加えない唯一の方法だ。だから、エコとか環境保護とか言っている人たちは、矛盾に満ちていて嫌いなのだ。

エコをインターネットで発信?ダブルスタンダードもいいところでしょうよ。
彼らの守ろうとしている環境は、結局は人間に都合の良い環境なのだから、それは原発といった人工物だったりと根本的には変わらないのである。

唐澤頼充

【仕事】「こめかんWEBサイト」農家取材・ライティング

2013年12月

さまざまなお米をちょっとづつ、楽しめる商品「こめかん」。
WEBサイトのコンテンツとして掲載する、農家さんへの取材記事を新しく2記事担当させていただきました。


こめかんWEBサイト:http://komecan.jp/

追加で取材したのは、三条市五十嵐さんのこめかん「元気の出るお米」。
それと、上越市農事組合法人蛍の里のこめかん「おにぎりにあうこめかん」。
こめかんシリーズでぜひお気に入りのお米を見つけてください。

唐澤頼充

【仕事】“グルメポンテ”の特集記事を担当しました

2014年3月に公開されたグルメポンテさんの特集記事の取材・ライティングを担当しました。

特集としてアップされたのは以下の2記事です。

 「食べる」第12回 新潟の「米・酒・肴」を満喫!旅館ホテルがその土地でしか味わえない魅力を提案

 「食べる」第11回 鮮度抜群!新潟市自慢の地場産品を味わおう!

両取材とも、新潟の「食」の素晴らしさを改めて感じるものになりました。グルメポンテさんの取材はいつも食の楽しみ方を発見できるんですよね。とてもおもしろいお仕事です。いつもありがとうございます。
それにしても、デザイナーさんとカメラマンが加わる記事は見栄えがいいですねー。にいがたレポでもいつの日かこのクオリティに届くよう努力したいと思います。
唐澤頼充

場所に差別化要因はないと思う

どこか住んでいる土地とは別の土地に遊びに行った時、「なんて素晴らしいところなのだろう」と感動することが多くある。むしろつまらないことしかなかった土地の方が珍しく、大体はどこでも物珍しく興味を惹かれるところがある。
地方に住んでいると、地方の魅力を語る人はたくさんいる。それは間違っていないし、土地の魅力というのはあるのだろう。しかし、「この土地が最高だ」、「日本一だ」という主張には賛同しかねる。
「この地域だけが特別!」というPRを見ると、薄っぺらく感じてしまう。
世界中には数えきれないほどの人が住む土地がある。そして、その土地はそれぞれに歴史があって、文化があって。それは絶対に優劣をつけられない。
どこが一番なんてことはないのだ。
私は、大学入学以来ずっと新潟県新潟市に住んでいる。もう10年になる。
「新潟が大好きなんだね?」と聞かれると、「嫌いじゃないけど別に一番じゃないよ」と言いたくなってしまう。
私が新潟に住んでいるのは、ほとんど偶然で、たまたまセンター試験の結果が新潟大学しかA判定が出なかったので受験し入学してきた。就職の時には、たまたま彼女が新潟にいて、たまたま興味ある企業に新潟で採用してもらったから。フリーになる時も、やっぱり彼女が新潟にいて、仕事をくれる人も新潟にいたから。
それで、たまたま新潟に住んでいるから、せっかく住んでいる場所をもっと楽しくしたいと思い、いろいろな仕事や活動をしている。そこには「新潟だから」というのはあまりなく、今住んでいるからという理由しかない。
新潟で縁があったから、住んでいる場所を楽しくして、自分が楽しみたいから地域活動もしている。
私は土地にこだわりはあんまりなくて、どこだって住めば都だと思っている。真剣に比較検討すれば新潟ほど冬が厳しくない広島とか住んでみたいなぁとかも考える。
じゃあなんで広島に行かないか?と考えてみる。なんでだろうか。第一に知り合いが居ない。仕事もない。特に移住せざるをえない理由もない。新潟でつくったつながりや仕事等を捨てることになる。そんなところだろうか。
このように、どこに住むかってあんまり大事ではなくて、それよりも誰と住むか、誰がいるかの方が大切な気がする。それをコミュニティと言ってもいい。土地の魅力で新潟に残るのではなくつながりが多いから残る。そんなイメージだ。
場所に差別化要因はなく、誰とつながっているかが大切。
そうなると、地方で移住者を集めたりしている人たちは、土地の魅力以外の魅力を語らなければいけないなぁと思う。
さらに言うと、これって結構仕事とも似ている。私は今はライター業を中心に食べているけれど、何でお金を稼ぐのか手段は正直どうでも良い部分もある。それよりも、誰とやるか、のほうがモチベーションが続いたりする。自分が発注者になる時も、相手のスキルより、この人に任せてみたいかと思うかどうかのほうが気になったりする。
夢や自分のやりたいことをやる、という選択肢もいいしスキルも大事だけれど、私は一緒にやりたい人とだったら業務内容や現在のスキルは何だっていいかな、とも思う。
人生なんて全部たまたま。たまたま出会った人や、たまたま頼まれた仕事、それを縁とよぶ。たまたまにしっかり応えて、つながりを積み重ねていこう。
唐澤頼充
 

4/12の新潟日報夕刊に掲載されました。


「にいがたレポ」http://niigata-repo.com/を運営する人として私が4/12発行の新潟日報夕刊「夢きらめきトーク@niigata」に掲載されました。

にいがたレポについて取材を受け、いろいろとご説明させていただきました。
記事にも書いていただいたとおり、「新潟の楽しみ方」を実際に楽しんでいる地域の人自身が発信するプラットフォームとなれるよう、引き続き頑張りたいと思います。
ご協力いただける市民ライターも随時募集中です。私も書いてみたい!という方はお気軽にお問い合わせ下さい。ちょっと話だけ聞いてみたいという方も歓迎ですよ~
唐澤頼充

3/29の朝日新聞朝刊新潟版に掲載されました


私が主催するサイト「にいがたレポ」(http://niigata-repo.com/)が3/29発行の朝日新聞朝刊、「くらし」に掲載されました。

2月23日に市民ライターのミーティングを取材いただき、約一ヶ月後に記事になりました。
昨年12月からスタートしたにいがたレポは、順調に読者数が増加。参加いただける市民ライターの方も増えてきています。
今後とも、新潟の素敵な情報をどんどんとお届けしていきますので、よろしくお願いします。
また、市民ライターも募集中です。私も書いてみたい!という方はお気軽にお問い合わせ下さい。ちょっと話だけ聞いてみたいという方も歓迎ですよ~
唐澤頼充