SFの役割は何か?

私はSF作品が好きだ。SFマニアの人たちに語れるほど作品を読んでいるわけではないので、オタクと自称するのははばかられるが、SFが好きだ。

機動戦士ガンダムから始まり、フィリップ・K・ディックに没頭。マトリックスなどの映画作品や、小説家カード・ヴォネガットJr、アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラーク、攻殻機動隊などアニメ・マンガ作品など、思えばいろいろなSF作品を消費してきた。
SF、つまりはサイエンス・フィクションには、今とは違った世界設定を作り上げ、そこにある諸問題等が描かれている。科学が進歩したときにどのような世界になるのか?どのような社会問題があるのか?人はどのような感情で動くのか?SF作家が魂を削って作り上げた作品は、未来の話だからこそ「人間」が生々しく描かれているように思う。


さて、いつからかSF作品の大作や大ヒットというものを聞かなくなってしまったように思う。GRAPEVINEというバンドの「冥王星」という歌でもそんな一説がある。

SFはもう、流行しないの? ナンセンスなんて不条理だろ

1985年生まれの私が小さな頃。物心がつくか、つかないかのギリギリ。幼児向け雑誌には頻繁に「未来の世界」が描かれていた。未来都市。空飛ぶ車。チューブの中を走る電車。銀色のへんてこな服を着た未来人たち。今思えばおかしかったけれど、あそこには夢があったように思う。
最近、そんな未来予想をあまり目にしなくなった気がする。パソコン、スマートフォン、グーグルグラス。あの頃から考えると想像もできないような未来のガジェットが生まれ、未来に生きている僕らは、さらにその先の未来を想像しているだろうか?
オイルショックから始まる資源問題。資源が枯渇し科学の発展はありえないのではないかという危機感。次世代エネルギーを夢見て運用された原子力にもチェルノブイリ、スリーマイルそして福島第一原発で暗い影が。そんな科学の閉塞感が、SF作家にも影響したのだろうか。楽しい夢を描けなくなってしまったのだろうか。
こんな時代だからこそ。いや、かつて描かれていた未来に片足を突っ込んでいる今だからこそ、さらに一歩を踏み出すための光を、SFが照らして欲しいというのが私の願いだ。
SF作品というのは、どういうわけかディストピアを描く作品が多い。フランケンシュタイン・コンプレックス。科学は神を怒らせ人間に滅びがやってくる。人間が生んだ科学の結晶であるコンピューターに人間が滅ぼされてしまう。そんな暗い作品も多い。ロボットの手下、大企業の奴隷、スラム化する町、核戦争の後。
社会が豊かだった頃はそういった悲劇を消費して楽しむ土壌があったと思う。しかし、それは消費であって、自分ごとではない他人の不幸を見て楽しむための娯楽にすぎない。そうではなく、未来に希望を持つような、科学が作り出すユートピアを描く作品があまりに少ない気がしている。
かつてガンダムに憧れロボット研究者が増えたと言う。そもそもロボットが2本足で歩き、それに乗り込むというのは日本ならではの文化だそうだ。だが、日本で育った研究者達は2足歩行で搭乗できるロボットを夢見て研究しているそうだ。
そんな希望を抱かせるような作品がもっともっと出てきて欲しい。アイザック・アシモフの作品にはそんな愉快さがあった。今、ユートピアを描く作家はいるのだろうか?私が知らないだけかもしれないが、もっともっと雄弁に美しく、まぶしい、華やかなユートピアを描いて欲しいと思う。


3.11、フクイチ。ウクライナ。世界的な経済の停滞。暗い世の中のときこそ、明るいSFが花咲いて欲しい。

SFの役割はきっと未来に光を照らすことだと思うから。
唐澤頼充

エヴァ展の衝撃。ビジネスマンはもっと真剣にディテールまで考えなきゃいけない

先日、新潟市中央区万代に用事があったので、空き時間にエヴァンゲリオン展を見てきた。私は元々アニメ作品が好きなのと、エヴァもそれなりに好きで、せっかく新潟に来たのだからとずっと思っていた。
結論から言うと、エヴァ展は本当に感動した。展示と言ってもオタッキーな展示物や萌え萌えの演出があるわけでない。ただ単に、エヴァンゲリオンのアニメができるまでの製作過程を原画やら絵コンテやらで紹介しているというだけのものだ。


企画書から始まり、脚本や設定資料、原画、セル画。といったアニメ製作現場では当たり前かもしれないものが展示してある。しかし、出来上がったアニメーションしか見たことのない私にとってはどれも新鮮だった。
細かい設定からはじめ、アニメーションの作りこみの細かいこと細かいこと!ここまでしっかりと手間を掛けて、途方もないほどの作業の果てにアニメ作品はできているだと感慨深くなった。クリエーターとはここまでディテールにこだわり作りこんでいるのだと。
特に庵野秀明さんが書いたと言うエフェクト。爆発で起こる煙や、吹き飛ばされる町などの細かい書き込みにため息が出た。映像にしてしまえばほんの一瞬。いや、気付かない人の方が多いかもしれないほどディテールまで作りこんでいる。
ここまで作りこんで初めて、大ヒットを飛ばせる作品ができるのか。作りこんできてもヒットできない作品もある。なんて厳しく、孤独で、忍耐の必要な仕事なのだろうか。
一方で、振替って自分の仕事はどうか?ここまで詳細に設定をしているだろうか?
ライティングや地方メディア作りをしている私は、正直「地方の設定」をもっとよく考えないといけないと痛感した。その地域の歴史、人、風土全てをひっくるめてしっかりとストーリーをつくらなくてはいけない。それはメディアの役割だし、まちづくりの第一歩だとも思う。
私以外のビジネスパーソンもそうだ。企業が、町の商店が、農家が、職人が、何か情報発信するときに、エヴァほどストーリーの背景となる設定を決め手からやっているだろうか?そこまで物語をつくりこんでから、理解してから情報を発信しているだろうか?うすっぺらの言葉だけを投げかけてないだろうか?
私を含めもっとディテールをよく考えなくてはいけない。
エヴァでは、世界観、舞台、登場人物、メカ、使途などそれぞれにしっかりと意味を込めている。ディテールまでしっかりと設定している。ぼくらのまちづくりや情報発信はどうか?しっかりと歴史や文化のうえに立って地方の生活や魅力を語っているだろうか。そこまで情熱はあるだろうか。
感情マーケティングや共感マーケティング、ストーリーマーケティングと言う言葉が氾濫しているが、本質はどこにあるのか。エヴァという作品を作ったガイアックスほど、自分の伝えたいものを真剣に考えただろうか。
私は、ライターとして、編集者として、メディアメーカーとして。もっともとお細部を考え尽くし、設定をし、そうしてから文章を書いたり情報発信をしていかなくてはならない。

新潟という物語をどう表現していくかはエヴァのように設定にどこまで情熱を注ぐかにかかっている気がした。
唐澤頼充


にいがたレポを3ヶ月運用してみて

以前からブログでも記事にしているが、私は「にいがたレポ」という新潟県全域対象のローカルウェブマガジンを運営している。


始めたのは昨年12月中旬。ウェブ構築の知識がまったくないため、デザインやサイト表示スピードなど非常に不満が多いのだがとりあえずやってみようとスタートしてみた。果たして、ネット通販の利用が全国最低の新潟県でウェブメディアは成立するのか?一緒の実験のようなものだと考えていた。
それから3ヶ月経ち思った以上に反響があったという感想。ページビューも順調に伸び、SNSのフォロワーも増えてきた。にいがたレポは、「市民ライター」が参加してまちをレポートするというスタイルでやっている。地域の生活者自らがまちの魅力を発信するのが一番説得力があるというコンセプトでライター募集を始めた。その市民ライターとして参加したいという声もいろいろなところから頂くようになっている。


雑誌にできないこと、大きなメディアにできないこと、インターネットにしかできないことをいろいろと考えながら仕掛けをしているわけだが、スタート時はもちろんまったくアクセスがなかった。

ゼロからウェブメディアをやるにあたって、非常に助けになったのはやはりSNS。記事数も少なく、検索流入がなかなか増えない中でも、SNSで既存につながりのある人たちが面白い記事を書けば見に来てくれる。この基盤がなかったら早々に心が折れていただろう。また市民ライター制度もこのSNSと相性が良かった。私のフォロワーだけでなく、市民ライターが自分の書いた記事をそれぞれのフォロワーに紹介してくれる。おかげで、私のつながっていないユーザーにも認知してもらえる結果となった。
ページビューに関しては2ヶ月目で月間1PVを達成。2月中旬ころからは検索流入も増えて、3月は2PV行くかもしれないと言う規模になってきている。しばらくは右肩上がりで推移することを期待したい。
これまでに苦労したことはやはり記事作り。最初の頃はほとんど一人で毎日更新していたし、お金もあまりないので取材費も全然かけられない。お金をかけられないのは今も一緒なんだけど、当時は果たして需要があるのかどうかわからない状況のせいで思い切った行動がなかなかとれなかったのだ。ネタ集めにいけない、書くの大変で孤独だったが、ライターとして参加してくれる人が増えてきて「方向性は間違っていないかな」と思うことができたのが大きかった。やはり孤独は敵。仲間がいると何倍も力が出る。ライターさんは20名近くが集まってくれて、それぞれ味のある記事を書いてくれていて本当にありがたい。
開始から3ヶ月が経過。このまま地道に記事を更新し続け、市民ライターを増やし、フォロワーがもっと増えてくれば、新潟県内でもかなり影響力のある媒体になるのではないかと手ごたえを感じている。
早急の課題はサイトの表示速度。マジで遅い。ロリポップを嫌いになった。
そもそも安いサーバーと思ってロリポップにしたのだが、後から調べると表示速度の不満が各所で見つかった。即サーバーを引越し!と言いたいのだが、サーバー移行のやり方がぜんぜんわかっていないので、誰かに教えてもらうしかない。「誰か助けてください!」
次にデザイン。とりあえず有料のwordpressテーマを買って入れただけの現状から、ちゃんとメディアとして見られるようなかっこいいデザインにしたい。しかし、私にはデザインも、プログラミングの知識もないので自分ではどうすることもできない。私は書くことしかできないのだ。「誰か助けてください!」
そしてマネタイズ。現実的には広告になるのだろうけど、しっかりとメディアとして独り立ちし、ライターさんに謝金を支払えるくらいには早くしたい。企業にとってもきっといいプロモーションになるはず。「パートナーになってください!」
最近、ようやくメディアとしての基盤が固まり、方向性も見えてきたと感じている。これからもっと新潟のまちを面白くするべく本腰を入れていこうと思う。このプロジェクトはいろんな人と協同して盛り上げて行きたいと思っているので、コラボしたいと言う方や企業さん大歓迎!お気軽にご連絡いただければありがたい。
唐澤 頼充

髪の毛の哲学

先日、久しぶりにもじゃもじゃパーマをかけ友人に「誰?」と笑われている。私は人と比べ髪の毛が伸びるスピードが速い。せっかく髪の毛を切ってかっこいい髪型にしてもらっても、あっという間にもさっとした残念な髪形になってしまう。

2週間に一度くらい散髪ができたらどれだけイケメンでいられるだろうかと思うと興奮が止まらない。それか、いっその事スキンヘッドにしてしまい、オシャレな髪型のカツラをかぶって過ごしたほうがカッコいいのではないか?とも考えている。

とにかく、髪の毛が伸びるのが面倒くさい。腋毛も○ン毛も、毛は生えているものの一定の長さになれば抜け落ち、一定の長さは保たれる。なぜ髪の毛は相当な長さまで伸び続け、頻繁に散髪をしなくてはいけないのだ。正直なところイライラする。
今の時代では髪型は重要なファッションの要素だ。誰もが疑いなく自分に似合う髪形を探したり、髪型で個性を主張したりする。さまざまな髪の長さや、色。そんなものが当たり前の世界になっている。しかし、昔を振り返ると結構みんな同じ髪型をしている。日本のチョンマゲはもちろん、その前の飛鳥時代の絵もそう。ヨーロッパとかもだいたい一緒だ。
昔は時にファッションのためのものではなかった髪の毛。一体、髪の毛はなぜ伸びるのだろうか?
動物の中である特定部位の体毛が伸び続ける動物がいるか考えてみてして欲しい。人間に近いといわれるチンパンジーやサルも、髪の毛が伸び続けるという印象はない。どいつもこいつも大体同じ髪型をしている。そもそも動物の体毛は同じ種であればだいたい同じような髪型をしている。なぜ人間だけが髪の毛が伸びるのか。
そもそも髪の毛が伸びることで、自然界でいいことなどない。視界が遮られてしまうし、何かに引っかかったり挟まったりすると痛い。狩猟生活をしていた頃のホモ・サピエンスにとっては致命的な弱点になりかねない。森の中で枝に髪の毛が絡まり動けなくなり獲物を逃す可能性がある。髪の毛が目に入り「痛ててっ」と言っているその瞬間にマンモスの強烈な一撃をもらい死に至る可能性もある。しかも髪の毛は切りにくいときている。自分の髪の毛をさわってみてほしい。思った以上に頑丈だ。工作用のハサミではうまく切れないほどだ。刃物がなかった時代などは、相当切りにくかったことが容易に想像できる。こう考えると髪の毛が伸びるのは進化を間違ったとしか思えないのだ。
機能性を考えれば人間の髪の毛もある程度の長さで生え変わったほうが絶対にいい。しかし髪の毛は伸びる。伸び続ける。これはもう髪の毛が伸びる生物が人間だと言ってもいいかもしれないくらいではないか。「人間とは何か?」「人間と動物の違いは?」という問いの1つに「髪の毛が伸びる生き物が人間だ」と回答があってもいい。脳の大きさや、二足歩行、手の進化が人間を作ってきたという話は聞いたことがあるが、これまでに髪の毛が人間を作ったという話を聞いたことがない。もっと髪の毛を哲学してもいいような気がしてきた。
そういえばマイナスの進化で思い出したが、不要な進化を遂げている生物もいるのだった。クジャクの雄の豪華絢爛な羽は完全に進化の失敗だ。まずでかい。そして目立つ。クジャクの雄は羽が重過ぎてうまく飛べないと聞いた事もある。目立つから人間に狩られまくってきた。明らかに失敗だ。しかし、クジャクの雄の羽は重要なメスへのアピール要素だという。男同士でかっこよさを競っていたら無駄な進化を遂げてしまったのだろうか。鹿の角とかも結構邪魔そうな気がする。あれもメスへのアピールだ。
そう考えるとセックスアピールのための進化は機能的にマイナスになってしまうということだろうか?そして人間の髪の毛も異性へのアピールのためのものだったのだろうか?サルは四足歩行だから目の前のメスのお尻に興奮すると聞いたことがある。お尻が大きく赤いメスがモテるようだ。人間は二足歩行になったから、お尻よりも目の前にあるおっぱいに興奮するそうだ。男は皆おおきいおっぱいが大好きだ。
だが、髪に欲情するとはあまり想像できない。確かに平安時代は髪が長くツヤのある女性がモテているイメージだし、今の時代も髪の毛マニアはいそうである。しかし、種が始まった原始のころはどうだっただろうか?そもそも原始人時代はみんな同じような髪型だろうし、何よりも伸びっぱなしで臭そうだ。シャンプーもない時代、つやもなく、伸びっぱなしで泥にまみれた髪の毛はばい菌もいっぱいいそうだ。とても欲情できるとは思えない。髪の毛=セックスアピール説は私の中では納得できない。
一体髪の毛はなぜ伸びるのか?髪の毛が伸びることは人間に何をもたらしたのか?髪を剃って出家するというのは、人間の何かを手放したという意味があるはずだ。髪の毛が伸びることで人間は一体何を手に入れたのだろうか。髪の毛の哲学を誰か教えてほしい。
唐澤頼充

シェアタウンという可能性は新潟でも実現できるかもしれない

三浦展・著の「第四の消費」をパラパラと見ていたら「シェアタウン」というアイデアを見つけ、これは新潟で実現できるのではないかと思ってしまった。

シェアタウンというのは簡単に言うと

まちを開く。使っていない部屋や庭などを不特定多数の人にシェアすること。

のようなイメージ。シェアハウスが特定の空間を、特定のメンバーでシェアするのに対し、シェアタウンはまちにあるさまざまな個人所有の空間を、不特定多数のメンバーとシェアするというものだと理解した。
カーシェアリングが都会で普及しつつあるなど、シェア経済は確実にその範囲を広げている。その中で、まちに住む個人が所有する資産を広くシェアするという方法は何らかの形で実践されて良いと思う。
家をまるごと使わせてくれというのは難しいかもしれないが、家のキッチン貸しますとか、たまに誰かソファで寝ていいよ!使ってない倉庫をイベント会場として使って良いよ!などという人は存在すると思う。
そんな大きなものでなくてもシェアできるものはたくさんあるともう。例えば私は買ったきり使わないエレキギターを持っているのだけど、これは誰かに貸しても良いと思っている。このように人に貸せるもの、リスト化して共有する。ビデオカメラを持っているけれど年に数回しか使わなかったり何だかんだで所有したが使わない期間が長いというものを、誰だれもがひとつくらい持っているのではないだろうか。
もちろん、家のリビングや畑を貸せると言う人もいていい。
それを所有している人と借りたい人をマッチングする場を作れないだろうか?
わざわざ貸し借りできる人を探すのが面倒くさいという意見もあると思う。それはまったくその通りで、そもそもお金で買うと言うのはコミュニケーションコストがゼロで交換ができる仕組みだからだ。
逆に言えばコミュニケーションコストがさえかければあらゆることが無料でできるはず。
おそらく、まちでお腹へったとまちで見知らぬ人でも20人くらいにまちで声をかければ誰か奢ってくれる。これで夕食代はゼロだ。
極端なことを言えば、日本中の人ひとりひとりに、「お願いですから1円ください」と土下座して回る。そうすれば1億円以上を集めることができる。これを誰もしないのはコストがかかりすぎるからだ。
一方、インターネットやソーシャルメディアが一体何を変えたのか?それは、コミュニケーションコストを大幅に下げたという点に尽きる。誰かにメッセージを送るのにかつては手紙や電話で対一人に対してのみ、しかもコストをかけて行なっていた。しかし、メールはほぼタダでできるようになり、ソーシャルメディアで1対多のコミュニケーションも取れるようになった。
だからこそ、お金を通さないやりとりが間違いなくもっともっと生まれても良いはずだと思う。
これらコミュニケーションを通じたシェア経済を拡げていくために欠かせないものが、シェアを支えるコミュニティだと思う。シェアの思想に同意し、許容するグループを形成できれば、その中でもっと活発にシェアが進むはずだ。
これまでシェア経済がなかったかといえばそんなことはない。ママ同士がおさがりを回しあうコミュニティや、若者が仲間内で何かを貸し借りするといったコミュニティは存在してきた。
それをインターネットを使ってある程度大きなコミュニティで実現できるかどうかを試すというのは非常に面白い試みだと思う。そのためにはある程度基盤になるリアルのつながりを活用する必要がある。私が思うのはやはり特定地域内で、という制限だ。
「新潟という特定地域の中で、異様にシェア経済が発達している」という未来を想像するとものすごく興奮してくる。
シェア経済は助け合いのネットワークでもある。
新潟は自殺が日本でトップクラスに多い県だ。
そんな新潟から、助け合いのネットワークが実現・発達する。
「新潟に行けば何とか生きられる!」そんなイメージを持ってもらえるくらいのネットワークを作る。
これってすごく魅力的ではないだろうか?
私の好きな新潟のストーリーに、日本初の西洋料理店を開いたピリトロ・ミリオーレの話がある。開港の港として知られる新潟だか、彼が開業した明治7年に、新潟には10人少しの外国人しか居なかった。そんな状況なのによそ者の外国人に「お前店やれよ!」と任せる新潟の人はかなりぶっ飛んでる。
だって、10数人しか外国人がいないなら、外国人を見たことのない人の方が圧倒的に多いはずだ。ペリー提督を天狗に例えて恐れおののいたほどの日本人だ。そんな未知の人種に店をやらせる?その店に客が来ると思う?普通は思わない。
しかし、お店は大繁盛したようだ。新潟のまちの人も相当ぶっ飛んでいるんだと思った。
懐の深さなのか、適当なのかわからないけれど、そんなぶっ飛んだ新潟の価値観はきっと今でも生きていると思う。
自殺上位県から救いあいのネットワークが生まれ、全国から逃げ込んでくる先になる。そんな夢を見たい。
ひとつのコミュニティの基盤として、友人である坂爪圭吾氏が取り組んでいる「necoプロジェクト」のつながりを活用できないか提案するつもりだ。
「necoプロジェクト」のnecoは「new communication」の略。

このバッジをつけていると、それは「いつでも気軽に話しかけてOK!」というサインになります。「街全体を社交場に」をコンセプトに、大量に配布をすることでカフェや街中でnecoと出会う可能性を高めていき、今までではあり得なかった新しいコミュニケーションが生まれていく事を目指します。(引用:neco公式facebookページより)

このneco。新潟の若者の中でにわかに広がりつつある。
シェアに違和感のない層を抱えるこのnecoのつながりを基盤に、少しずつ新潟のまちを開いていく。少しずつ「シェアタウン」に近づけていく。
そんなことが直感的に実現できそうな気がしている今日この頃である。
思いついたがままに書きなぐってしまったが、最後に僕の好きな言葉を紹介する。
「世界を変えられないなら世界を増やせ!」
世界を変えようとすると、戦いになる。ウクライナを見ていると悲しくなる。勝ち取る世界には必ず血が流れたり敗者が生まれる。そうではなく、自分たちが生きられる世界を自分たちの手で作りたい。
唐澤頼充

看板を掲げることの大切さ

先日、新潟で有名な某有名ダンスカンパニーの広報の方から突然メールが届いた。「公開リハーサルと囲み取材をします。ぜひ取材してください」とのこと。

これまでまったく接点のなかった方から本当に驚いた。と同時に「ああ、見てくれていた人がいるんだな」と少しだけ報われた気がした。
フリーになってからもうまもなく丸2年が経とうとしている。
これまでは「何をやっている人ですか?」と聞かれると「う、うーん。いろいろ」とズバリ応えられなかった。マーケティング会社出身ということもあり、コンサル、リサーチ、企画を始め、広告・ウェブサイトのディレクション、ライティングなどたくさんのことをやってきた。だからこそ「何でもできます」とついつい言ってしまいがちになる。しかし、何でもできますは何にもできませんとほぼ同義。誰の記憶にも残らない。
フリーになりたての頃は、「自分が看板だ!」などと、某ウサギキャラと同じあだ名の女史と同じようなことを言っていた。けれど、会社という看板の重さと、個人という力の小ささを実感した。まずは気に留めてもらわないことには何も始まらないのだとわかった。
私はそんな状況からようやく脱しつつある。
看板をつくったおかげか、「会いましょう」とこれまで会った事のない方からも声をかけられるようになった。肩書きではない。看板だ。
肩書き「ライター」や「リサーチャー」から、「にいがたレポ」を運営している人。そう言えるようになったことも、そう認識してもらえるようになったことも大変ありがたい。
説明をしておくと、にいがたレポとは私が運営する新潟のローカルウェブマガジンである。新潟の情報を「レポートする」というスタイルで、多くの市民ライターに参加してもらい記事を作成している。2ヶ月半の運営で、ようやく一日500アクセスくらいはコンスタントに集まるようなサイトになった。
にいがたレポ:http://niigata-repo.com/
2/23開催のライターズミーティング。多くの市民ライターが参加してくれた。
自分のプロダクトというのは自分の分身のようなもので、私個人が目に留まるよりも多くの人に目に留まる自分の拡声器のようなものである。
月並みな言葉ではあるが何かプロダクトを作るコストも、発表するコストもインターネットの普及で格段に下がっている。何かを始めたいという方は、自分を表すプロダクトを早めに作るのが吉だ。実績を公開するよりも圧倒的に説得力が増す。
そんなことにようやく気付いた。
自分の言葉以上に、自分の看板となるプロダクトは広く伝わる。会社という看板のないフリーランスこそ、請負ばかりに走るのではなく自身の看板プロダクトを早々に掲げることをお勧めする。
唐澤頼充

結局フリーランスですと言ったっていずれ会社化するんじゃないの?

先日、クラウドソーシング事業を営むランサーズ株式会社が主催する「47都道府県おじゃまします!フリーランス交流会 in 新潟」というイベントにパネラーとして登壇した。

私は2012年秋口頃からランサーズをライターとして利用させてもらい、ある程度まとまった仕事をさせていただいた。その結果、今ではライティング分野では認定ランサー(ランサーズの審査通過した最高ランク)にしていただいている。おそらく新潟ではそういうユーザーは珍しく、そのご縁で今回パネラーとしてお声がけ頂いたのだと思う。
登壇し、フリーランスに関するさまざまな質問に回答していく中で、結局フリーランスの人が「最終的に目指すのは、組織化だよな」と思ってしまった。時間や場所に縛られずに自由に働けるのがフリーランスのひとつの特徴であり、魅力であるとは言え、結局将来的にはそれを手放していく方向が一番安定すると気付く。そんなストーリーがフリーランスにはあるように感じている。
私自身、会社員と現在のフリーランスの両方を経験しているわけだが、フリーランスの方が圧倒的にデメリットが多いように感じている。メリットと言えば「ボスは自分」ということだけだろうか。
フリーランスの定義は、「組織に所属しない請負業」だ。請負業である以上、業務を回している間しか金が入ってこない。もちろん、営業、制作、総務、その他をバランスよくまわしていける人なら問題ないのだろうが、果たして何歳までそれが続けられるのだろうか?
確かに体が動く若いうちは、スキルのある人間であれば、フリーになったほうがそのときの収入は多くなると思う。しかし、年を取るにつれて体は動かなくなり、家庭や子育てによって時間確保も限定的になる。さらに言えば、企業の発注担当が若い人間に代わった場合、外注先に年上の人間と、若くて機動力があり何でも言うことを聞く人間のどちらに発注しやすいだろうか?
もちろん、年を取ってきてそうならないように、フリーランスはリスク分散を図る必要がある。
ひとつは、専門分野の絶対的存在になり、ブランド価格で仕事を得ること。仕事の単価が高ければ仕事の量が減っても対応は可能だ。しかし、価値があるということは、希少であるということ。つまり自分をブランド化できる人間は本当に一握りしか居ないということだ。
もう一つは、効率化すること。もちろん業務スピードを上げる、リピートを増やし営業効率を良くするなどで効率化ができる。しかし、最大の効率化は「分業」。つまり、人を増やしてそれぞれの業務を分業していくということになる。結局多くのフリーランスが自分で食べていくためには、こちらの手段を選ばざるをえないように思う。
仮に会社化し、その社長になったとして、そうなればかつてフリーランスとしてあった「時間や場所に縛られずに自由に働ける」環境を手放すことになる。まるで若い頃に一人でやっていた時間はモラトリアムだったかのようだ。
このように考えていくと結局、フリーで組織に属さず自由に働くということ自体、幻想ではないかとも思う。目指すべき方向は組織化なのだから。いやいや有名になって自分のブランドを作れば・・・という方もいるかもしれない。しかし、糸井重里さんのよう有名になっても結局自分の事務所を作って組織化するものだ。
こうなると、フリーランスになる人と、雇われのままでいる人との違いは「誰がボスか」、の一点につきるのではなかろうか。いずれ自分がボスになりたいから、フリーになるという決断ならわかりやすい。一人でやりたいんだ、では限界がすぐ見えると思う。
ボスになる。社長になる。いずれ人を使うんだ。そういう熱い思いを持った、ある意味では我が強い人がフリーランスになったほうが、何となく成功するような気がする。
逆に、やりたいことをするためにフリーになりたいといった場合には、企業の中にそういう場所を探すほうが道が開けると思っている。もちろんわずらわしいことも多いのは私も会社員だったのでよくわかるが、自分でやるにしたってわずらわしいことはクソみたいに多い。だったら、給料をもらいながら。仕事をしつつ、副業で。といったスタンスの方が満足度が高いような気がする。
と言うことで、私は早くフリーランスを辞めて、会社化をしたくて仕方がない。だが、なにぶん給料を支払えるほどの余裕がまだないという非常にモヤモヤした状況なのだ。こんな局面を早く乗り越えて、会社化するか。もしくは、自分がボスではない組織に所属するか。一体どうなることやら。早くOLと働きたい。今後のいちライターの行く末を生暖かく見守って欲しい。

唐澤頼充


都知事選を終えて。家入一真候補への失望と希望と

東京都知事戦が終わった。
猪瀬知事でよかった私としては最初から最後まで興味の持てない選挙だった。その中でもネット界隈で話題になったのが、家入一真さんの出馬。しかし、結局9万票には届かず、泡沫候補からは抜け出せなかった。

インターネットなんてホント、ごく一部の人にしか届いていないということと、インターネットはものすごく広大だということを改めて認識した。
私は、家入さんについてはどちらかと言うとアナーキーな人だと思っていた。これまでの活動は個人的には、「政府や大人に頼らず、自分たちの居場所は自分たちで作っていくんだぜ」というものだったと受け取っている。
しかし、今回の都知事戦で、政治家になろうと決意した。
それは、きっとコミュニティや繋がりだけでは救えない現実に直面してしまったからだと思う。本人に聞いてないから予想でしかないが。
けれど、家入さんを取り巻くコミュニティでは9万人に届かない投票数が限界だった。政治家になるにはもっと多くの支持基盤を集めなきゃいけないということになる。
彼は自分たちのコミュニティ作りはしてきてはいたが、政治的な支持基盤作りはこれまでやってこなかった。結果がこれだ。改めて、政治の遠さを感じずにはいられなかった。
個人的には家入さんのコミュニティの代表として今回の得票数で終わったのであれば別に良かったのではないかと思う。
ただ問題だったのは、「ネットの代表」「若者の代表」的な立場で出馬してしまったことだ。
家入さんの「僕らの」は、今回間違いなくネットユーザー全体を指すものと捉えられてしまった。
これは大きな問題だ。
実際のところ家入さんはネット上にアンチも多い。フォロワーだって特別多いわけではない。所詮10万フォロワーに届かない程度の認知度だ。
確かにフォロワーにとってはカリスマかもしれないが、それ以外の人にとっては元々ただの泡沫候補に過ぎないはずだった。
それなのに、周りの期待と、家入陣営の発言によってネット代表、若者代表に祭り上げられてしまった。
家入さんがネット代表、若者代表と見なされ選挙に望んだ以上、今回の結果は完全な敗北と言っていいと思う。
しかも、悪影響しか残さないほどの敗北だ。
フォロワーは満足したかもしれない。しかし、ネットと若者には、また届かなかったという失意しか残らなかったからだ。
最後まではっきりとしなかった「ぼくら」。しかし、きっとあったであろう家入支持層。わたしは、その「ぼくら」を明確にし、「ぼくら」のための選挙戦を戦って欲しかった。
ネットや若者の代表などと大風呂敷を広げるべきではなかったと思う。
事実、若いネットユーザーの代表的な候補となったのが、結果的に田母神氏だったのも見逃せない。家入さんはまったく若者代表になっていなかったと、結果から見て取れる。
確かに、家入さんを取り巻くコミュニティだけを代表するのであれば、今回のような出馬で良かったと思う。きっと家入陣営の中で、手ごたえはあっただろうし、次こそはという気概も生まれたと思う。
しかし、風呂敷を広げすぎたがために、家入さんに関わりのなかった若者やネットユーザーには、「力がない」という風評被害だけが残る結果となってしまったのではないか。
自分たちのコミュニティを背負ってか、それともネットユーザー全体を背負ってか、この違いは本当に大きい。
ネットを背負って出馬するのであれば、本気で勝つ準備をするべきだった。
選挙で勝つ準備とは、選挙期間中だけでなく、その前から根回し、支持基盤作りをすることなど本気だったらやらなくてはいけないことはたくさんあった。
最初から前者の出馬であったら、僕は家入氏を手放しで賞賛したと思う。しかし、努力不足の後者であり、かつ結果が伴わなかったから失望している。
しかし、希望が残らなかったわけではない。
家入陣営は、政治団体「インターネッ党」を設立し、続く区長選へ候補者擁立することを決めた。家入さんの取り組みが、一時の祭りではなく、本当の政治活動をしようという動きにつながったことだ。
彼の言う「ぼくら」が誰を指すのかはわからない。だが、「ぼくら」のための政治活動を継続的に行なっていくことを決めたのは本当に素晴らしいことだと思う。「ぼくら」が「誰か」を明確にし、その「誰か」が受益者となるために政治活動を行なうというのは、清廉潔白でわかりやすい。ぜひ早い段階で「誰か」を明確にして欲しいと思う。
「誰か」さえ明確になれば、その後の政治活動の戦略も立てやすい。それは政党活動に限らず、この層の受益のためならNPOでもいいじゃない?という道も見えてくると思う。
繰り返しになるが家入さんはこれまで、自ら居場所を作り続けてきた人だと思う。そして、きっと自ら居場所を作ることができない本当の社会的弱者に出会ってしまったのではないか。だからもう、そいつらを救うには政治しか手段がないと判断したんだと思う。その意思は本当に素晴らしいし、実際行動まで移した成果も大きい。
だから、選挙戦以外にも戦う道を見つけ、継続して政治活動を続けて欲しい。
確かに、家入敗北で若者やネットの力のなさへの偏見、社会的評価ができてしまったダメージはある。しかし、「ぼくらが誰か」を明確にして、その人たちのためにどこまで戦えるのかチャレンジを続けることで、きっと次のステージも見えるのではないか、と期待したい。
唐澤頼充